第4章
森田浩介はスマホを握ったまま、意外そうに眉を上げた。
気分次第――か。
水原茜は、こういう小細工が昔から好きだった。
浩介はネクタイを緩め、スマホをソファへ放り投げる。
帰ってこないのは、機嫌を取らせたいだけか。あるいは本当に出張か。
だが三年も自分のそばにいた女だ。彼女の暮らしも、居場所も、何もかも自分が与えたものだと、彼は信じている。
自分を離れて、いったいどこへ行けるというのか。
どうせ、欲しがらせて逃げるだけの駆け引きだ。
自分の注意を引きたい。ただそれだけ。
そのうち一人で騒ぐのにも飽きて、結局はおとなしく戻ってくる。
――自分が、彼女を知らないはずがない。
森田浩介は煙草に火を点けた。
ゆらゆらと立ちのぼる煙が、焦点の定まらない彼の目と、胸の奥に引っかかったままの得体の知れない違和感を、薄く覆い隠していく。
一方、ホテルの広いベッドの上。
水原茜のスマホがぴこんと光り、LINEの通知が弾けた。
浜原恵也からだった。
【ごめん、茜。フライトが遅れてて、到着は数時間ほど遅くなりそうだ】
茜はスマホを取り上げ、指先で画面を軽く叩く。
【大丈夫です、恵也さん。私は先に見てきます。着いたら待ってますね】
そう返して立ち上がり、浴室へ向かう。
鏡に映った女は、顔色こそ青白いものの、目だけは妙に冴えていた。
悲しみもない。
怒りもない。
まるでこの三年間に積み重なった愛も憎しみも、ぐしゃぐしゃにかき混ぜられた末、何一つ残らず流れ去ってしまったみたいだった。
自分は愚かだった。
けれど人は、いつまでも愚かではいられない。
いつまでも無邪気なままでもいられない。
水原茜は、もともと冷静な人間だ。
愛というものも、ずっとよく見えていた。
かつては森田浩介を深く愛した。
だからこそ、裏切られたその瞬間に、彼へ向けた愛のすべてを引き上げることもできる。
鏡の中の、どこか幼さの残る自分の顔を見つめる。
それから茜は、そのまま身を湯に沈めた。
張りつめた一日を、冷たい水がじわじわと洗い流していく。
翌日。
約束の時間に合わせて、水原茜は市内でも人気の高いブライダルサロンへ向かった。
完全予約制。
一対一で案内され、プライバシーも徹底されている。上流の令嬢や富裕層の夫人たちに好まれる店だった。
「水原様、いらっしゃいませ。担当の小春でございます」
スタッフの女が恭しく迎える。
「浜原様からは事前にうかがっております。こちらへどうぞ。最新のラインをご案内いたします」
茜は小さく頷き、やわらかなソファに腰を下ろした。
小春はにこやかに、ずっしりと厚いカタログを差し出す。
ページをめくれば、世界屈指のデザイナーたちが手がけたドレスがずらりと並び、どれも息をのむほど美しい。
茜は目を伏せ、何ページかを流すように見た。
どの一着にも、それぞれの趣向と個性がある。
かつては、自分も想像したことがあった。
森田浩介と結婚したら、どんな未来になるのか。
二人で並んでドレスを選ぶ日が来るのか、と。
結婚式の日には、いちばん特別な一着をまとって、家族や友人に見守られながら幸せへ歩いていく。
そんな願いさえ、無邪気に抱いたことがある。
けれど今、目の前に広がるこの華やかさは、ひどく皮肉に見えた。
ドレスが皮肉なのではない。
自分の恋が、だ。
そのとき、サロンの扉が再び開いた。
革靴が床を打つ、落ち着いた足音が近づいてくる。
茜は思わず顔を上げた。
たった一目で、カタログをめくっていた指が止まる。
森田浩介。
そして、涼宮佳奈。
佳奈はほとんど浩介の腕にぶら下がるように寄り添い、愛らしい笑みを浮かべていた。上品なワンピースがよく似合っている。
一方の浩介は、まっすぐ茜を見据えていた。目の奥に、鋭い光を走らせながら。
視線がぶつかる。
空気が、その瞬間に凍りついた。
浩介の顔が険しくなる。
「水原茜。俺をつけてきたのか」
声は低い。
だが責め立てる響きは、隠しようもなかった。
茜はゆっくりと瞼を上げる。
落ち着いた視線で彼を見返し、口元には礼儀だけを残した薄い笑みすら浮かんでいた。
「森田さん。この店、あなたの持ち物でしたか」
「……っ」
浩介は言葉に詰まった。
胸の奥で何かがつかえたように、呼吸がひとつ止まる。
涼宮佳奈も、おずおずと前へ出る。
「浩介、そんな言い方しないで。水原さん、たまたま通りかかっただけかもしれないし……私たち……」
言葉はそこで途切れた。
けれどその視線は、茜の前に置かれた分厚いドレスカタログへ、意味ありげに落ちている。
浩介の目もそれを追った。
何を見ているのか理解した瞬間、顔に残っていた最後の忍耐が、すっと消える。
ウェディングドレス。
出張は嘘。
こんな場所に来て、わざわざドレスを見せつける。
つまり、そういうことか。結婚を迫るための芝居。
浩介は冷たく笑った。
蔑みを少しも隠さない目で、茜を見下ろす。
「水原茜。みっともない真似はやめろ」
彼は遠慮なく距離を詰め、ソファから茜を立たせる。
そのまま耳元へ顔を寄せ、低く囁いた。
「脅しのつもりか? 結婚を迫って、楽しいか」
さらに容赦なく言葉を重ねる。
「はっきり言っておく。俺はお前とは結婚しない」
「俺たちは釣り合わない。身分が違いすぎる」
「お前なら、最初からわかってると思ってた」
「今すぐ家に帰れ」
冷たく、断ち切るような言葉だった。
ただ、彼と涼宮佳奈の醜い関係を、茜が目にしてしまった。
それだけのことで。
「俺、森田浩介はお前を娶らない」
サロンの中は水を打ったように静まり返る。
小春はいたたまれない顔で、その場に立ち尽くしていた。
けれど、水原茜は怒らなかった。
泣き崩れもしない。
昔のようにわがままをぶつけて甘えることもない。
眉ひとつ、動かなかった。
浩介の錯愕と怒りの混じった視線を真正面から受けながら、茜は彼の手を振りほどく。
痛んだ手首をさすり、ふっと二度ほど笑った。
手元のカタログが、ぱたん、とテーブルに投げられる。
「森田様。何をおっしゃっているのか、私にはさっぱりわかりません」
そう言って顔を上げる。
信じられないものを見るような浩介の目を、まっすぐ見返した。
「今、私とは結婚しないとおっしゃいました?」
紅い唇がわずかに開く。
次に落ちたのは、彼がまったく予想していなかった、たった一音。
「へえ?」
驚きでも、怒りでもない。
ただ、純粋な好奇心だけを滲ませた声音。
続いて彼女は小さく首を傾げる。
澄んだ目が浩介を通り越し、その背後で懸命に無垢と儚さを演じている女へと向いた。
ゆっくり、口元に弧が描かれる。
「それで、どなたと結婚なさるおつもりなんですか。涼宮佳奈さんですか」
たった一言で、突きつけられた刃をそのまま相手へ返す。
空気がまた凍る。
先ほどまで見物人のような顔をしていた涼宮佳奈の表情が、ぴたりと固まった。
彼女は眉を寄せ、かすかに困ったような顔を作る。
「水原さん、何か誤解なさっていませんか?」
「誤解、ですか」
茜の声は淡い。
「でしたら、そちらの男性に聞いてみればいいのでは」
「私とあの方がどういう関係なのか」
「……もっとも、涼宮さんほど賢い方なら、見当くらいはもうついているのでしょうけれど」
佳奈はすぐに浩介を見上げた。
か細く、不安げな声を作って。
「浩介……本当? あなたと、この水原さんって、特別な関係なの?」
森田浩介は眉をひそめる。
鷹のように鋭い目で茜を射抜き、それから短く言い捨てた。
「知らないな」
――あまりにも軽い、ひと言だった。
その言葉で、三年が切り捨てられた。
