第5章
三年も同じベッドで眠ったのに、高嶺の花がか弱くひと言たずねただけで、それで終わり。
森田浩介の目は鋭く、言葉は刃みたいに水原茜の奥へ突き刺さった。もっとも、そこはとっくに痺れている。かさぶたの下で冷えきって、もう痛みすら感じない。
茜は森田浩介を見ようともしなかった。唇にやわらかな笑みだけをのせ、涼宮佳奈へ向けて言う。
「涼宮さん。どうやら森田さん、あなたに私との関係を知られたくないみたいですね」
「でも大丈夫です。森田さんが『親しくない』っておっしゃるなら、今日から私たちは他人です」
そう言い終えると、茜はゆっくり立ち上がり、そのまま隣のブライダルコンサルタントへ丁寧に声をかけた。
「すみません。こちらを試着したいです」
彼女が指さしたのは、ショーウィンドウの中央に飾られた、店の看板ともいえる一着だった。
白を基調にしながら、裾に向かって淡い青へ溶けていくグラデーション。幾重にも散りばめられた細かなダイヤが光を受け、きらきらと夢のようにまたたく。まるで天の川そのものだった。
以前、雑誌で見かけたことがある。この店の至宝だと紹介されていたドレスだ。
涼宮佳奈は、自分がずっと欲しかったそのドレスに茜が目をつけたとわかると、眉をひそめた。
「水原さん。このドレス、誰でも買えるものじゃないんですって。オーナー自らデザインして、将来の奥さまのために用意したものだって聞きましたけど」
小春も小さくうなずく。
「はい、その通りです」
その場の誰もが、次に起きる恥を見物するつもりでいた。ところが、そこで支配人が姿を見せる。
「オーナーからお話は伺っております。こちらのドレスは、水原さんにご試着いただいて構いません」
そのひと言に、森田浩介と涼宮佳奈はそろって固まった。
茜はわずかに眉を上げる。
「ありがとうございます」
涼宮佳奈は森田浩介の腕をぎゅっとつかんだ。
「森田お兄さん、私もこのドレス、すごく好き」
案の定、森田浩介の顔色はさらに悪くなる。
「水原茜。俺はお前と結婚しない。そのドレスを試したところで意味はない。佳奈に譲れ」
茜は一瞬だけ眉を寄せたが、すぐ何事もなかったように表情を戻した。
「森田さんも涼宮さんも、耳が聞こえないんですか。今、支配人がはっきりおっしゃいましたよね。このドレスは私が試着できるって」
森田浩介が言い返そうとした時には、もう遅かった。
茜はくるりと背を向け、そのまま試着室へ歩き出す。小春に向かって、当然のように言った。
「持ってきてください」
あまりにも自然で、拒む余地のない声音だった。
小春は困った顔をしながらも、仕方なくそのドレスを外し、後を追って試着室へ入っていく。
扉が閉まる。ぱたん、と。
その向こうに、森田浩介と涼宮佳奈は取り残された。
涼宮佳奈は森田浩介にもたれ、唇を尖らせる。
「浩介、私、変なこと言っちゃったかな。水原さん、もっと怒っちゃったみたい」
森田浩介は落ち着かない様子で、形だけ彼女の背を軽く叩いた。
「あいつに、そんなに気を使う必要あるか」
そう言いながらも、視線だけは何度も何度も、閉ざされた試着室の扉へ吸い寄せられていく。
時間が、じりじりと過ぎる。
やがて――
「カチャ」
小さな音を立てて、扉が開いた。
水原茜が姿を現した、その瞬間。
会場の空気が、ぴたりと止まった。
そのドレスはまるで彼女のために仕立てられたように、細い腰の線も、すらりとした肩から首筋のラインも、完璧に浮かび上がらせていた。
もともと白い肌は、ダイヤと白いチュールに照り返されて、光を放っているようにすら見える。
長い髪は無造作にまとめられ、なめらかな額と、整いすぎるほど整った顔立ちが露わになっていた。
表情はほとんどない。ただ静かにそこに立っているだけ。
それだけで、息をのむほど美しかった。
森田浩介の瞳孔が、はっと縮む。
呼吸が半拍、抜けた。
水原茜がウェディングドレスをまとった姿など、彼は一度も想像したことがなかった。
この三年、彼女はいつも飾り気のないコットンやリネンのワンピースを着て、従順に彼の後ろを歩いていた。静かな植物みたいに、目立たず、柔らかく。
そんな彼女が、こんなにも眩しい景色の中心に立つなんて。
考えたこともなかった。
涼宮佳奈は、森田浩介がほんの一瞬見せたその動揺を、見逃さなかった。
胸の奥がきゅっと締まる。彼の手を握る指先に、思わず力が入った。
「森田お兄さん……水原さん、本当に綺麗。私、なんだか自信なくなっちゃう」
「私のこと、嫌いになったりしない?」
「このドレス、思ってた以上に彼女に似合ってるし……やっぱり私、試さないほうがいいかも。きっと私じゃ、あんなふうになれない」
その言葉で、森田浩介はようやく我に返った。
だが次の瞬間、目の奥ににじんだのは、茜に無視されたことへの苛立ちと、思い通りにならないことへの不快感だった。
「脱げ」
声は、氷の破片みたいに冷たかった。
茜はゆっくり目を上げ、彼をひと目だけ見る。
まるで、聞き分けのない見知らぬ人でも眺めるような目だった。
それきり無視して鏡のほうへ向き直り、裾を丁寧に整えながら、小春へたずねる。
「このドレス、おいくらですか」
小春が一歩下がると、支配人が前に出た。
「こちらは非売品です。ただ、水原さんがご結婚なさる際には、ご提供できることになっております」
「ありがとうございます。では、これにします。とても気に入りました」
茜は淡々とそう言った。
そのひと言が、森田浩介の堪忍袋を完全に切らせた。
彼は大股で近づき、茜の手首を乱暴につかむ。骨がきしむほど強い力だった。
「お前、誰と結婚する気だ」
押し殺した声で言い、続ける。
「そのドレスは佳奈に譲れ」
手首に走る痛みに、茜はわずかに眉をひそめた。
ようやく正面から彼を見据える。
だが唇に浮かんだのは、冷えた皮肉の弧だった。
「森田さん。彼女が欲しがったら、その人の名前でも書き込まれるんですか」
「私が結婚するかどうか、誰と結婚するか。それ、あなたに関係あります? だって私たち、親しくないんでしょう」
少し間を置いてから、彼の手を振り払う。赤くなった手首をさすりつつ、ゆっくりと言った。
「残念ですね。このドレス、私が気に入ったんです。それに支配人も、もう一度はっきりおっしゃいました。試着できるのも、結婚の時に使えるのも、私だって」
「外でまで意地を張る気か。前のお前はこんなんじゃなかった」
森田浩介は胸を荒く上下させる。
「俺が娶らないって言ったくらいで、そんなに拗ねるのか」
声を落としているのは、涼宮佳奈に聞かれたくないからだろう。
その盗人みたいな態度が、茜には滑稽で仕方なかった。
彼の手を、きっぱりと振り払う。
「森田浩介。私たち、他人です」
目の前の男は、黒い顔をしたまま立っている。
見慣れていたはずなのに、今はひどくよそよそしくて、ひどく可笑しい。
以前の森田浩介は、彼女をなだめ、機嫌を取り、逆らうことすらしなかった。こんなふうに声を荒らげることもなかった。
けれど今ならわかる。
あれは全部、彼女自身に向けられたものではなかったのだ。
この顔があったから、それだけ。
「森田様。私が欲しいと思ったものは譲りません」
茜は静かに言い切る。
「譲るとしたら、それが最初からゴミだった時だけです。いりませんから」
空気が張りつめたまま動かなくなりかけた、その時だった。
涼宮佳奈がそっと森田浩介の袖を引く。
「もういいよ。水原さんがそんなに好きなら、譲ってあげよう? 別のお店を見に行こう」
そのひと言で、森田浩介は涼宮佳奈の手を取ると、そのまま振り返り、二度と後ろを見ずに出ていった。
二人の姿が入口の向こうへ消えて、ようやく会場の気まずい空気が、少しだけゆるむ。
支配人は、汗などかいてもいない額をぬぐうような仕草をしてから、いっそう恭しく茜に声をかけた。
「水原さん、その……」
「着替えてきます」
茜はその言葉をやんわり遮り、試着室へ戻ろうとする。
その時。
入口のベルが、ちりん、と澄んだ音を立てた。
続いて、やわらかく清々しい男の声が響く。
「ごめん、茜。飛行機が遅れて――来るのが遅くなった」
