第2章
電話越しに、私は古崎俊がいかに有能かを熱弁していた。
「お姉ちゃん、彼を紹介してくれて本当に助かったわ。彼、すっごく“デキる”の。彼がいなかったらどうなってたか!」
姉は感涙にむせぶような声で言った。
「市子、あんたも大人になったのね……」
通話を切る。
すぐ傍で会話を聞いていた古崎俊が、たまらずといった様子で口を開いた。
「その言葉、お姉さんに正しく伝わってますか? あなたの意図と違う意味で受け取られてる気がするんですが」
「当然でしょ、姉妹の絆は強いんだから!」
古崎俊は押し黙ってしまった。
部屋の片付けも終わり、これ以上引き止める理由もない。
彼はどこか名残惜しそうだ。
その態度の意味を、私はすぐに悟った。
「安心して。数日したらまた散らかるから、掃除に来て」
古崎俊の表情が、瞬時にして恨めしげなものへと変わった。
数日後。例の案件をクライアントに提出すると、反応は上々だった。
その夜の接待で、先方の中村社長はしきりに私へ酒を勧めてきた。
企画書の出来を褒めつつ、何か秘策でもあるのか、実際に商品を使ったのかと根掘り葉掘り聞いてくる。
酒には弱いのだが、相手の執拗な勧めに抗えず、数杯干す羽目になってしまった。
トイレに逃げ込み、上司に『酔い潰れたので先に帰ります』とメッセージを送る。
だが、アルコールが回るにつれ、抑え込んでいたサキュバスとしての本能が疼き始めた。
……まずい。
タクシーを呼んで帰ろうとした矢先、トイレの外から中村社長の声が響いた。
「浦山さん?」
無視を決め込むつもりだったが、火照った身体が勝手に甘い吐息を漏らしてしまう。
それを聞きつけたのか、彼の声色が卑しく弾んだ。
「浦山さん、気分が悪いんじゃないのかい? 上のホテルに部屋を取ってあるんだ。休ませてあげるから、一緒に行こう」
あろうことか、彼は女子トイレに入ってこようとしている。
必死にドアを押さえるが、意識の混濁と身体の熱のせいで冷静さが保てない。
朦朧とする中、スマホを操作して誰かに助けを求めた。ホテルまで迎えに来てほしい、と。
個室の隅で息を潜める。
しばらくして、外から聞こえる中村社長の気配が薄れた。
諦めて立ち去ったのだろうか。
ドアを開けて外に出た瞬間、不意に身体を抱きすくめられた。
全身から酒臭さを漂わせた中村社長が、耳元で粘つくような声を出す。
「浦山さん、酔ってるねえ。部屋で休もう、きっと満足させてあげるからさ」
だめ。
早く逃げないと。
だが彼はしつこく私の行く手を阻む。
「浦山さん、もう少し付き合いなよ。次のプロジェクトの話もあるんだ」
彼の指先が服越しに肩を撫で回す。
その感触に背筋が震え、理性の鎖が本能によって引きちぎられそうになる。
檻から解き放たれようとする欲望は未知のもので、あまりにも猛烈だった。
抗う力も入らず、抱えられるようにしてホテルのエレベーターホールへ連れ込まれる。
意識が霞む視界の隅に、長身の影が映り込んだかと思うと――鈍い音と共に中村社長が殴り飛ばされた。
強引に、しかし確かな力で、私はその影の方へと引き寄せられる。
彼の手はひやりと冷たかった。
けれど、すぐに私と同じような熱を帯びていく。
朦朧としながらその手を握り返し、本能のままに身を寄せる。
ふわりと、鼻腔をくすぐる香り。馴染み深い、シダーウッドの香りだ。
淡いが、決して無視できない存在感。
それは普通の人間よりも遥かに濃厚で、致命的なまでに甘美な匂い。
たまらず唇を開き、覗いた牙で彼の指先を甘噛みするように舐め上げた。
「いい匂い……」
うわ言のように呟き、熱っぽい眼差しを向ける。
「おいしそう……食べたい」
男の身体が強張った。低く呻いた彼は、私を抱き上げるとそのままエレベーターへと乗り込んだ。
客室のドアが開く。
私は何も考えず、彼にしがみついたままベッドへと倒れ込んだ。
尾てい骨のあたりがムズリと蠢き、先端がハート型になった尻尾が飛び出す。
相手の息遣いが、苦しげに重くなった気がした。
何かを必死に耐えているような。
そんなことはどうでもいい。
ただ近づきたい。
もっと近くへ。
満足できる距離まで。
だが彼は、逆に私から距離を取るように立ち上がると、伸びてきた尻尾を指で軽く摘まんだ。
「だめです」
どうして?
そう問いかける間もなく、彼の手が尻尾を伝う。
夢魔にとって、尻尾は想像を絶する急所だ。
電流が走ったように全身が震える。
「……まあいいでしょう。これでも」
