第1章 彼の性欲をゼロにする
狭くて薄暗いクローゼットの中で、目黒千音は呼吸することすら忘れていた。
たった一枚の板を挟んだ向こうから漏れてくるのは、婚約者と義妹の、だらしない喘ぎ声。
「あっ……浩辰兄さん、もっと優しく……」
千音は胸元を押さえた。指先が震える。痛い。心臓を握り潰されるみたいで、息が吸えない。
鼻先に漂う薔薇の香り。
さっきまで「サプライズ」の象徴だったはずのそれが、今は――自分の滑稽さを笑っているみたいだった。
もうすぐ婚約。だから三日前、千音は先にこの新居へ戻ってきた。大きな薔薇の花束を抱え、クローゼットに身を隠した。
彼を驚かせるために。
――その結果、見せつけられたのは裏切りだった。
「浩辰兄さん……本当に、お姉ちゃんと結婚するの? あっ……」
ベッドがぎし、と軋む。
淫らな言葉の合間に混じる、男の荒い息。
「するわけねえだろ。あのブスにも多少価値があるから婚約してるだけだ。結婚とか吐き気する。顔の傷? ムカデみたいでさ。欲情できるかよ」
嫌悪を隠しもしない声。
千音は拳を握り締めた。爪が掌に食い込み、頬の傷がじくじく疼く。
――あのとき。「気にしない」「一生守る」
そう言ったのは、全部嘘だったの?
会話はまだ終わらない。
「お姉ちゃん、母親の遺産の権利握ってるでしょ。奪い取ってから捨てないと。今捨てたら、こんな便利な道具どこにあるのよ」
義妹の声が、ふっと陰に沈む。
「……悔しい。あのブス、命だけは無駄に強い。拉致して輪姦させようとしたのに、逃げ切ったんだから!」
「焦るなって、ベイビー。今だってあいつ、俺たちのために必死に働いてるだろ? お前がスキャンダルに巻き込まれたときも、俺がちょっと甘い言葉かけただけで、あいつが主役の身代わりになった。お前の歌が売れたのだって、あいつが曲作って、お前が口パクするのを手伝ったおかげだ」
男が、愉快そうに笑う。
「今捨てたら、誰がお前を“国際的スター”にしてくれる?」
目黒思月は甘ったるく笑い、新谷浩辰の腰へ脚を絡めた。
「じゃあ浩辰兄さん。早く……お姉ちゃん、片づけてね」
「月月、やっぱお前最高。気持ちよすぎる……あのブスなんか、お前の足元にも――」
肉のぶつかる音。喘ぎ声。
どれだけ時間が過ぎたのか。千音は眩暈と耳鳴りに耐えながら、暗闇でただ息を殺していた。
ようやく二人の気配が遠ざかる。
現実に引き戻された千音は、勢いよく扉を押し開け、ふらつきながら寝室を出た。
外は土砂降り。薄い服に雨が叩きつけられても、気にする余裕なんてない。
彼女は花束をそのままゴミ箱へ放り投げた。
三年前。拉致されて、輪姦されかけた。
――あれも、浩辰と思月が仕組んだものだった。
救いの手を差し伸べてくれた恩人だと信じ、三年間、奴隷みたいに使われた。
義妹のために徹夜で作曲し、口パクの影武者までやった。
婚約者のために取引先へ頭を下げ、接待の席で触れられても歯を食いしばり、契約を取った。
その結果、新谷グループは一気に大手へ。
思月は、飛ぶ鳥を落とす勢いの人気スターに。
そして何かあればいつも、千音が身代わり。
今回もそうだ。思月の浮き名を、浩辰の指示で千音がかぶった。ネットは袋叩き。ファンの罵詈雑言が止まらない。
……笑える。
千音の“尽くし”は、二人の恋の踏み台でしかなかった。
雨の夜を、屍みたいに歩き続け――やがて、ガラの悪い連中に目をつけられた。
ニヤニヤ笑いながら囲んでくる視線に、欲望と貪りが滲む。
先頭の男が腰へ腕を回し、濡れて張り付く服の上を値踏みするように視線を這わせた。
「おっ、どっから来た姉ちゃん? 顔も身体もいいじゃねえか。兄弟、今日は当たりだぞ」
じりじり迫ってくる。
「やめて! 近寄らないで!」
我に返り、必死に抵抗するが、数の暴力には勝てない。
あっという間に地面へ押さえつけられた。
男の一人が得体の知れない液体の瓶を取り出し、乱暴に口へ流し込んでくる。
熱い液体が喉を滑り落ちた瞬間、身体が勝手に熱を帯びていく。意識が遠のき、視界が霞む。
「新型の媚薬だ。手に入れたばっかで試してねえんだよ。今日はお前で実験だ。天国見せてやるからなぁ!」
下卑た笑い声。
千音は歯を食いしばり、必死に身をよじった。目には生への執念が宿る。
そのとき、黒い高級車が何台も路肩を走り抜けた。
千音は喉が裂けるほど叫ぶ。
「助けて!」
――けれど車は止まらず、雨の向こうへ消えていく。
絶望が胸の奥にじわじわ広がった。
もう終わりだ。そう思った瞬間。
闇の中から、数十人の屈強なボディガードが雪崩れ込んだ。
混混たちは反応する間もなく、容赦ない拳と蹴りを浴びる。悲鳴が雨音に混じって飛び交った。
千音は地面にへたり込み、遠のく意識の中で、雨幕の向こうに一台のマイバッハを見た。
ドアが、ゆっくり開く。
中には男がいた。
仕立てのいい黒いスーツ。冷ややかで、品のある佇まい。荒れた現場と、あまりにも不釣り合いだった。
冷たい雨が骨まで染みるのに、媚薬は体内で炎みたいに燃え上がる。
氷と火の狭間で意識が溶け――
次に気づいたとき、千音は男のいる車内へ運び込まれていた。
眉宇に宿る気品と沈着。まるで古い貴族の末裔みたいな男。
鋭い眼差しが、彼女を貫く。
そして――どこかで見たことがある気がした。
男は千音の顔に手を伸ばし、目を細める。
「……寧々?」
覗き込まれたその瞬間、車が動き出し、千音は体勢を崩して男の胸へ倒れ込んだ。
硬い胸板。腕の中にある、揺るぎない安全。
雄の匂いが鼻腔を満たし、最後の理性に火をつける。
浩辰が裏切ったなら――自分だって、壊れていいじゃない。
千音の腕が勝手に男の首へ絡み、震える唇が男の唇へ重なる。
必死で、貪るように。
拙い舌先が唇をこじ開け、口内へ滑り込んだ瞬間。
男の呼吸が乱れた。
「寧々……本当に、お前なのか」
寧々? 誰――。
疑問が浮かぶより早く、情欲の波が思考をさらっていく。
千音は男の襟を掴み、熱に震える身体で縋りついた。
霞んだ瞳で懇願する。
「お願い……助けて……」
男は彼女を抱き寄せ、深く口づけた。
「……寧々。頼んだのは、お前だ」
温かな手が服の内側へ潜り、柔らかな胸を確かめるように弄ぶ。
甘い刺激に堪えきれず、千音は腰を反らせ、太腿を男の高価なスーツへ擦り付けた。
どうすればいいのか分からない。
情けなく、縋るように見上げると――
男の喉仏が、ゆっくり上下した。海みたいに深い瞳が、暗く沈む。
「……ホテルへ」
再び目を覚ましたとき、千音は全身が軋むように痛かった。
隣には、背の高い男が横たわっている。
背を向けた広い肩。引き締まった背筋。肌の熱と、張り詰めた気配だけで、胸が早鐘を打つ。
昨夜の記憶が一気に蘇り、頬が熱くなる。
幾度も、幾度も。男は彼女を宥めるように導き、体位を変え、窓際へ押しつけた。ネオンに濡れた夜の街を背に、容赦なく――。
千音は唇を噛み、恐る恐る顔を確かめようと身を起こす。
その瞬間、男がわずかに身じろぎした。目を覚ましかけている。
――まずい。
千音は息を殺し、身体を引いた。心臓が跳ねてうるさい。
薄い朝の光の中、横顔を盗み見る。
脳裏に浮かんだ名前に、血の気が引いた。
立花帝。
……昨夜、自分は国民俳優の立花帝と寝た?
千音は胸の内の嵐を押し込み、そっと布団をめくる。床に散らばった服を拾い集め、手早く身につけ、音を立てないよう部屋を出た。
自宅に戻った途端、スマホが震えた。
表示された名に、胃の奥がひくりと痙攣する。
新谷浩辰。
不機嫌を隠しもしない声が耳を刺した。
「目黒千音、昨夜どこ行ってた? 電話も出ねえし……何して遊んでたんだ?」
