第11章 アムネシア

会場の面々は、壇上の立花一夜と立花帝の視線がこちらへ向いたのを見て、反射的に「目黒思月を見ているのだ」と思い込んだ。

「思月、立花様たちが見てるの……もしかして、あなたじゃない?」

「だよね? ここであの二人と関わりがあるの、思月くらいでしょ!」

目黒思月は、彼女たち若手歌手の中で唯一「名門の家柄」と呼べる存在だ。自然と周囲からは持ち上げられ、ちやほやされる立場にいた。

「みんな、勝手なこと言わないでよ。私だって立花様と、ちょっとお仕事で関わっただけだし」

口では否定しながらも、目黒思月の胸はくすぐったく躍る。つい、見せつけたくなってしまうのだ。

嘘をついているわけでもない。彼女の中では、グラミーのノミネートなど、すでに「手の中にある」も同然だったのだから。

「えっ、ほんと? どんなお仕事?」

周囲の目が一気に輝く。

「大したことじゃないよ。……グラミーのノミネート、ってだけ」

声量は大きくない。だが、周りの耳にはきっちり届く、計算された大きさ。

「ええっ、すごい! 思月、やばいじゃん!」

「名門で、しかも今いちばん売れてる歌手でしょ? 人生勝ち組すぎ!」

羨望がさらに濃くなり、媚びるような笑いが増えていく。

「そんなそんな、運がよかっただけだよ」

目黒思月はわざとらしく謙遜しながら、内心ではその賞賛を甘く味わっていた。口元の笑みは、隠しきれないほど得意げに広がっていく。

――この瞬間の目黒思月は、自分の名声の大半が、目黒千音の犠牲の上に成り立っていることなど、もう思い出しもしなかった。

一方、壇上の立花帝と立花一夜は、自分たちの視線が若い歌手たちの乙女心を勝手に騒がせているなど知る由もない。

「おじさん、目黒千音も出てる」

立花帝は目線で促し、立花一夜に目黒千音のいる方向を示した。

立花一夜は立花帝を一瞥し、喉の奥で短く「……ん」と鳴らす。

「言っとくけどさ、今日の彼女、案外きれいじゃない? ただまあ――玉に瑕、ってやつ」

立花帝は面白がるように笑った。

「……ずいぶん気にしてるな」

立花一夜が横目で立花帝を見る。笑みを浮かべたその顔が、なぜか妙に癪に障った。

――やばい。

立花帝の表情が一瞬引きつる。すぐに取り繕うように言い足した。

「だって、俺の未来の「おばさん」だし!」

立花一夜は淡々と一瞥を返しただけで、視線は再び目黒千音のほうへ留まり続けた。

危機をくぐり抜けたと悟ると、立花帝は懲りずに、さらに立花一夜をつつく。

「おじさん、賭けようよ。今日の選抜、誰が勝つと思う?」

小声で問いかける。

立花一夜は迷いなく言った。

「目黒千音」

「……えっ!?」

立花帝は目を見開く。

つまんない。なんで当てるんだよ。

しかし驚きのあと、立花帝の顔にじわりと疑念が浮かぶ。

「おじさん……まさか、出来レースとか?」

まだ目黒千音がアムネシアだなんて言ってないのに。どうして勝つって分かるんだ。

立花一夜はその言葉に、冷ややかに目をやった。

「う、うそうそ! 今のは冗談! おじさんがそんなことするわけないじゃん!」

立花帝は慌てて撤回した。

……口では騒いでも、立花帝は分かっている。立花一夜が、そんな小細工をする男じゃないことくらい。

結局、彼はそれを「婚約者同士の妙な勘」だと勝手に片づけるしかなかった。

立花帝がなお何か言おうとした、そのとき。

舞台では、目黒思月の出番が告げられる。

目黒思月は立花帝と立花一夜を見上げ、自信に満ちた足取りでステージ中央へ進んだ。

照明が一斉に集まり、視線が突き刺さる。――ああ、この感覚。たまらない。

彼女はこっそり、仕込んでおいた録音機器を起動させた。

だが。

いつもなら完璧に動くはずのそれが、今夜に限って――無音。

目黒思月の顔色がさっと変わる。

その一瞬の硬直で、彼女は一番大事な、冒頭のタイミングを逃した。

まずい。

頭が真っ白になる。それでも引き返せない。目黒思月は強引に自分の声で歌い始めた。

周知のとおり、目黒思月は新人の中でも実力派として知られている。

――だが今夜の歌は、はっきり言って「ひどい」の一言だった。

配信は一気に荒れ、コメント欄は罵倒で埋まっていく。

『なにこれ、下手すぎだろ!』

『笑う、これが最注目の女歌手?』

『台本じゃないの?』

『ヅキファン、目ぇ覚ませ。立花様が上にいるのに、誰が茶番やるんだよ』

……

その弾幕はリアルタイムで、舞台脇の大型スクリーンにも投影されている。

目黒思月はそれを見て、唇から血の気が引いた。

「ごめんなさい……ここ数日、風邪で喉をやっちゃって……だから、うまく……」

自分でも失敗を悟ったのだろう。彼女は歌を止め、言い訳を始めた。

だが観客は馬鹿じゃない。喋れているのに、歌だけあそこまで崩壊するのは不自然すぎる。

それでも、ヅキファンたちだけは必死に擁護した。

採点に入る。

目黒思月が事前に手を回していた審査員だけが満点をつけ、他の審査員はためらいなく「0」を並べた。

「近道しようとするからこうなる。結局、化けの皮が剥がれただけだろ」

立花帝は、以前目黒千音に言われた言葉を思い出し、目黒思月へわざと聞こえるように嘲った。

その瞬間――客席から怒声が飛ぶ。

新谷浩辰だ。目黒千音を睨みつけ、指を突きつける。

「目黒千音! お前の仕業だろ! なんで思月にこんなことするんだよ!」

怒りは本物だ。だが「口パク」だの「機材」だのと露骨には言えない。自分にも目黒思月にも傷がつく。

周囲の視線が、一斉に目黒千音へ向く。

目黒思月はすかさず涙声を作った。

「お姉ちゃん……私が妬ましいのは分かるよ。でも、こんなのひどい……。お姉ちゃんのせいで私、風邪ひいて、喉まで壊しちゃった。これで満足?」

「うわ、やっぱりあの子が……」

「義理の妹のほうが優秀だから嫉妬したのね。怖……」

……空気は簡単に流される。目黒思月が作った「物語」に、会場は乗せられていった。

司会が慌てて舞台へ出る。

「それでは次の歌手に移りましょう。続いては――アムネシア!」

アムネシア。

目黒思月に匹敵する勢いで人気を伸ばしている新世代の女性シンガー。だが表に出ることは少なく、ほぼイベントに姿を見せない。今回が事実上の「初登場」だ。

会場中の視線が、歌手の待機エリアへ集まる。

そして――。

目黒千音が、驚愕の視線を浴びながら、ゆっくり立ち上がった。

そのまま静かに、ステージへ向かって歩き出す。

目黒思月も新谷浩辰も、目を見開いたまま固まる。

「お姉ちゃん、やめてよ。アムネシアだよ? あんたが名乗っていい名前じゃない。今すぐ降りて!」

目黒思月は嘲るように言い放つ。

だが目黒千音は、彼女を一度も見ない。

ただ、真っすぐに舞台の中央へ立った。

呆然とする目黒思月の前で、司会がにこやかにマイクを上げる。

「それでは皆さま――アムネシア、目黒千音の登場です!」

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