第2章 あなたが昨日のあの女?

新谷浩辰の声を聞いただけで、昨夜の不貞が脳裏に蘇る。

目黒千音は胃の奥をかき回され、今にも吐きそうになった。

それでも不快感を押し殺し、平静を装って口にする。

「昨夜、スマホの充電が切れて電源が落ちてたの。何かあった?」

新谷浩辰はそれ以上追及してこなかったが、口調は相変わらず不機嫌だ。

「今夜の宴会、立花様が来る。ちゃんと着飾れ。必ずいい印象を残せ」

心臓がどくん、と跳ねた。頬が一気に熱くなる。

立花帝。

昨夜の――あの男。

「思月が立花様と組めたら、今回のグラミーだってノミネートが見えてくる。会社の実績も跳ね上がる」

そして、いつもの調子で甘い圧をかけてくる。

「千音。俺を失望させないよな?」

――滑稽。

彼が失望するかどうかなんて、彼女に何の関係がある?

また利用されろって? 冗談じゃない。

「顔の傷が今日はひどくて……病院に行きたいの。夜の宴会、間に合わないかも」

参加したくなくて、とっさに口から出た言い訳だった。

すると電話の向こうで、新谷浩辰の声が急に張り詰める。

「また痛むのか? 家庭医を行かせる。お前一人で病院なんて危ない」

――過剰な反応。

その一言が、目黒千音の胸に小さな棘を刺した。

三年前、二十歳のとき。目覚めたら病院のベッドで、海外留学中の八年分の記憶が抜け落ちていた。

医師は「交通事故による失憶と顔面の損傷」と説明した。

だが、どれだけ調べても国外での足取りは何ひとつ出てこない。

まるで、八年という時間だけが丸ごと消えたみたいに。

傷も、当初は治る見込みがあったはずだ。なのに後になって炎症を繰り返し、いつまで経っても良くならない。

治療はいつも新谷浩辰が手配する家庭医。彼女は一度も、正規の病院で精密検査を受けていなかった。

――まさか。

目黒千音は深く息を吸い込み、胸のざわつきを飲み込む。

「浩辰、心配してくれてありがとう。……考えたけど、やっぱり宴会が大事だし、病院は後にする。薬を多めに塗っておくね」

立花帝が必ず来るとも限らない。ここで疑われるのは避けたい。

そう言って電話を切ると、彼女はすぐ車を出し、病院へ向かった。

診察室で、医師が傷を見て眉を寄せる。

「目黒さん。これまで塗っていた軟膏は何ですか? 傷自体は深くないのに治癒が遅い。薬のせいで感染を繰り返している可能性があります」

頭を殴られたみたいに、背筋が冷えた。

――やっぱり。

新谷浩辰は「あれは俺が特別に開発させた、高価な傷痕ケアだ」と言っていたのに。

目黒千音は拳を握り締めた。爪が掌へ食い込み、痛みが走る。

それでも、この胸を焼く憎悪に比べれば――何でもない。

演技で騙し、踊らせるだけじゃ足りず、私の顔まで壊すつもりだった?

……いい。

この借りは、何倍にもして返してやる。

――ホテルのロビーは眩いほど明るく、水晶のシャンデリアが星のように煌めいていた。

金色の装飾が並び、豪奢さをこれでもかと誇示している。

目黒千音は目を引くイブニングドレスを纏い、気品ある微笑みを作る。

丁寧なメイクで傷痕の一部を隠しながら、新谷浩辰の腕を取り、会場へ足を踏み入れた。

彼が取引先に挨拶へ向かった隙に、目黒千音は自作の盗聴器をそっと彼のポケットへ滑り込ませる。

動作は自然で、疑われる気配はない。

少し離れた場所で、目黒思月が陰鬱な眼差しで千音を睨んでいた。

嫉妬が胸の内で燃え盛り、今にも彼女を焼き尽くしそうだ。

――どうしてこの醜い女が、まだ浩辰の隣に立てるの?

どうして、まだ主役みたいに扱われるの?

彼女は掌を爪で強く刺し、痛みで理性をつなぎ止める。

焦らない。今夜は目黒千音に「大礼」を用意しているのだから。

ヒールを鳴らして近づき、作り笑いを貼り付けた。

「お姉ちゃん、今夜すごく綺麗。傷、ちょっと薄くなった?」

千音は振り向き、紅い唇で意味深に笑う。

「そう? 浩辰が私のために開発してくれた軟膏のおかげかな」

軟膏――その言葉を、わざと落とす。

思月の表情から目を離さない。

「思月も必要なら、いつでも分けてあげるよ」

思月の顔色が、わずかに揺れた。

その小さな動揺を、千音は見逃さない。

――やっぱり。あの薬のこと、こいつも知ってる。

千音は軽く笑い、柔らかな毒を包んで続ける。

「冗談。思月がそんなの必要ないよね。顔は大事にしないと。ちゃんと手入れしてね」

思月は笑みを保ったまま、腹の底の動揺を隠し切れない。

千音がどこまで気づいているのか、測りかねている。

そのとき、誰かが叫んだ。

「立花様が来たぞ!」

ホールのざわめきが一気に跳ね上がる。視線が入口へ集中した。

目黒千音の心臓が、きゅっと縮む。

眩い男が、ゆっくり入場してくる。

長身で、雑踏の中でもひときわ涼やかな気品を纏う――立花帝。

呼吸が止まった。昨夜の記憶が波のように押し寄せ、頬が熱くなる。

商業イベントにほとんど出ない男が、ここにいるなんて。

昨夜助けてくれたのに、彼女は――逃げた。

どう説明すればいい?

「千音、立花様だ。挨拶してこい」

新谷浩辰に急かされ、千音は息を整え、あの「天上の男」へ向かって歩き出した。

――その瞬間。

盗聴器から、声が届く。

「浩辰、なんで目黒千音を立花様のところに行かせるの? あの顔、見てるだけで気持ち悪い。立花様を驚かせたらどうするの」

思月の苛立ち。

浩辰が宥めるように低く言う。

「お前のためだろ。あいつが立花様の前で恥をかけば、お前が後から上品にフォローしてやればいい。印象が良くなるに決まってる」

「さすが、浩辰兄さん」

千音はグラスを握る指に力を込めた。関節が白くなる。

――よくもまあ、そこまで。

でも、好きにさせない。

彼女はワイングラスを優雅に揺らし、立花帝の前で花のように微笑んだ。

「立花さん。……またお会いしましたね。昨夜はありがとうございました」

立花帝はソファにゆったり腰掛け、夜空のように暗い瞳で彼女を見上げる。

感情が読めない。

薄い唇が動く。

「……昨夜?」

千音は胸の奥で息を呑んだ。

――気づいていない? それとも、覚えていない?

彼女は身をかがめ、髪が彼の首筋をかすめる。熱い吐息を耳元へ落とした。

「立花様。雲上ホテルで……昨夜、私にしたこと。もう忘れたんですか?」

甘く挑む声。けれど緊張が滲む。

立花帝の瞳が、一瞬で鋭く縮まった。

グラスを持つ指に力が入り、琥珀色の液体がわずかに揺れる。

――雲上ホテル。

昨夜そこに泊まったのは、「女嫌い」で知られる叔父、立花一夜だ。しかも女を抱いた。

その女は朝には跡形もなく消え、叔父は激怒し、都じゅうをひっくり返して探せと命じた。

まさか――目の前の女が、その「逃げた女」で。

しかも、自分を叔父と勘違いしている?

立花帝は驚愕を隠せず、言った。

「……君が、昨夜の女なのか?」

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