第3章 ベッドにいるのが本当に俺だと確信しているの?
立花帝の言葉を聞いた瞬間、目黒千音の胸に引っかかっていたものが、すとんと落ちた。
――覚えている。昨夜のことを。
彼女は動揺を悟らせまいと口元に笑みを作る。光を受けた瞳が揺れ、艶やかに瞬いた。
「立花さん、昨夜は二度も助けてくださいました。お礼に……私にできることがありましたら、何でも」
宴会場は絢爛な光に満ち、グラスの触れ合う音がきらきらと波を打つ。
少し離れた場所で、新谷浩辰が嵐の前の雲のような顔をして立っていた。
――いつも高みから見下ろし、何度頼んでも協業を断ってきた立花様が、千音を追い払うどころか楽しげに会話している。
計画が、崩れたのだ。
さらにその横で、目黒思月が悔しさにヒールを鳴らし、ぎり、と唇を噛む。胸の奥で嫉妬の火が燃え盛り、瞳の奥に毒々しい光が差した。
「……目黒千音、ほんっとムカつく」
吐き捨てるように呟くと、彼女は踵を返し、会場の隅にいるスーツ姿の男へ近づいた。
遊び慣れた顔つきの男――松本灯。最近、思月にしつこく言い寄っては厄介な噂をばら撒き、世間を騒がせていた相手だ。
けれど千音が身代わりになって以降、松本灯は「目黒千音のスキャンダル相手」という扱いになっている。
だからこそ思月は許せなかった。千音が、立花様のような格の違う男にまで近づくなんて。
立花帝は千音の言葉を反芻するように、口元に薄い弧を描いた。深い眼差しの奥で、何かがちらりと揺れる。
「お礼、ですか」
「はい。私は、受けた恩は返す主義なので」
千音の笑みは、照明の下でいっそう鮮やかだった。
立花帝としては、昨夜の「功労者」を自分のものにするわけにはいかない。おじさんの話をどう切り出すべきか――そう考えた、そのとき。
場違いな怒鳴り声が割り込んだ。
「目黒千音! このクズが! 数日前まで俺のベッドにいたくせに、今日は別の男に媚びてんのかよ!」
ずかずかと近づいてきた男が、唾を飛ばしながら指を突きつける。
松本灯だった。
声がでかい。会場の視線が一斉に集まり、ざわめきが潮のように押し寄せる。
「顔もアレなのに、私生活もだらしないって話よ」
「立花様に色目? 鏡見たら? あの傷、見てるだけで吐きそう」
千音は小さく息を漏らし、笑った。冷たい嘲りだけを残して。
「松本さん。本当に……あなたのベッドにいたの、私ですか?」
その淡々とした態度が癇に障ったのだろう。松本灯は顔を真っ赤にし、ポケットから写真の束を引き抜いてテーブルに叩きつけた。
ばさばさ、と散った写真。露骨な肢体、煽情的な構図。しかも写る女の顔は、はっきりと目黒千音だと分かる。
非難と罵声が一段と大きくなる。
立花帝は腕を組み、ソファに座ったまま静かに眺めていた。おじさんの気を引いた女が、どう切り返すのか――興味が湧いたのだ。
千音は騒ぎの中心に立ちながらも、微笑みを崩さない。
「皆さま。少々、お待ちください」
彼女は持参したノートパソコンを開き、指先を走らせる。迷いのない操作。数分もしないうちに、会場のスクリーンへ画像が投影された。
角度も背景も、松本灯が出した写真とまったく同じ。
――ただし、女の顔だけが目黒思月に差し替わっていた。
どよめきが爆発する。視線が探照灯のように思月へ集中し、逃げ場を奪う。
思月の顔から血の気が引いた。唇を震わせ、叫ぶ。
「偽物よ! 合成! 目黒千音が私を陥れたの!」
泣きそうな声で縋るように言う。
「お姉ちゃん、私、何もしてないのに……どうしてこんなことするの……?」
千音は冷えた笑みを浮かべた。
「目黒思月。やったなら、やったって認めなよ」
一語一語が、刃みたいに鋭い。
「松本灯と曖昧な関係のまま写真を撮られて、ネットに流れた。清純派のイメージを守るために、私を身代わりにした」
「これまで私が、あなたと会社のためにどれだけ身を削ってきたか……分かってるでしょ。それなのに、あなたはどう返した?」
千音の視線が、思月をまっすぐ射抜く。
「返してくれたのは――私の婚約者を誘惑すること?」
「私こそ聞きたい。私があなたに、何をしたっていうの?」
言葉が落ちるたび、会場がざわめきで揺れる。
「将来有望の歌姫」と持ち上げられてきた思月の裏側に、誰もが息を呑んだ。
立花帝は口元に面白がるような笑みを浮かべる。
――なるほど。おじさんが気に入るわけだ。
そこへ、新谷浩辰が鬼の形相で突進してきた。
「黙れ!」
彼は千音の手首を掴む。骨が軋みそうな力。怒りで顔が歪み、額に青筋が浮く。
「お前、どれだけ悪毒なんだ! 思月を汚すな。新谷家に婚約破棄されたくなければ、今すぐ全員に訂正しろ」
汚しているのが誰か――浩辰自身が一番分かっているはずなのに。
千音は冷笑し、振りほどこうとする。しかし外れない。
その瞬間。
浩辰の身体が横から強く押し退けられ、よろけた。
千音の前に立ったのは、背の高い男――立花帝。圧迫感すらある存在が、盾のように彼女を庇う。
浩辰は罵声を飲み込んだ。相手が立花帝だと気づいたからだ。
立花帝の眼差しは氷のように冷たい。
「公の場で女性に手を上げるなんて、見苦しい」
「違う、誤解で……!」
浩辰が慌てて取り繕うが、立花帝は取り合わない。
「宣言します。私個人、ならびに立花グループの全事業は、新谷グループおよび所属タレントとの一切の協業を拒否します」
おじさんの女を、傷つけさせるわけにはいかない。
おじさんがここにいたら、もっと容赦はなかっただろう。
浩辰の顔から血の気が引き、一気に灰色になる。
――なぜ、そこまで?
目黒千音と立花帝はいったい、どんな関係なんだ。
詰め寄ろうとしても、立花帝の護衛に阻まれた。
立花帝は浩辰を一瞥もせず、千音を連れて会場を後にする。
千音は小さく息をつき、囁いた。
「……ありがとう。また助けてくれた」
立花帝は意味深に笑う。
「礼はまだ早いですよ。もっと大きな「サプライズ」が待ってます」
昨夜、「禁欲で冷淡」と噂されるおじさんが抱いた女が千音だと知った時点で、立花帝はすでに連絡を入れていた。
今頃、向かっているはずだ。
……だが千音は、その言葉の意味を掴めないまま、パーティーは終わった。
立花帝は最後まで含みのある笑みを残し、去っていった。
賓客たちはそれぞれ控室へ流れていく。千音も自分の部屋番号の控室へ向かい、扉を押し開けた。
ふわり、と淡い白檀の香りが鼻先をくすぐる。
薄暗い室内。窓辺で、男が背を向けて車椅子に座っていた。
顔はよく見えない。
それでも千音の心臓が、どくん、と跳ねる。
座っているだけで、空間を支配する圧がある。見上げることすら躊躇うほどの威圧。
そして横顔は立花帝に七、八分似ているのに、さらに成熟していて――危ういほど色気が濃い。
そのとき、千音は床に転がる影に気づいた。
縄で縛られ、口には布を詰められた松本灯が、呻き声を漏らしている。
「んっ……ううっ……!」
千音は目を見開いた。
――何、これ……?
