第4章 立花帝のおじさん
「あなたは……立花帝さんの年上の方ですか」
目黒千音は確信の持てない声でそう尋ね、目の前の男をじっと見つめた。
年の頃は立花帝とさほど変わらないように見える。だが、漂う落ち着きと圧倒的な存在感が――この男は立花家の「目上」なのではないかと、彼女に思わせた。
男は小さく頷き、淡々と言う。
「立花一夜」
立花一夜――!
その名は、雷鳴のように目黒千音の脳内を打ち抜いた。
人々が立花帝を恐れるのは、彼本人や立花家の名声ゆえではない。
真に忌避されているのは、立花帝の叔父――立花一夜の存在だ。
一帯の経済の血流を独占するとも言われる立花グループを掌握し、さらに国家の財政を握る要職――財政部の内閣大臣。
神のように完璧な男。唯一の瑕は、両脚が不自由で、車椅子から離れられないこと。
障害ゆえ気性が荒く、長年屋敷に籠り、滅多に公の場へ姿を現さない――そんな噂もある。
その男が、なぜここに。
疑問が胸を満たすより先に、千音は気づいてしまう。
昨夜の記憶にある「男」に近いのは、立花帝よりも――むしろ、この立花一夜のほうだ。
大きく逞しく、熱を孕んだ身体。触れれば溺れそうな体温。
低く、甘く、耳の奥に残る声。
狂ったような映像がふっと蘇り、頬がかっと熱くなる。胸の奥まで、じわりと燻るように焦げついた。
――そのとき。
空気に混じる、微かな甘い香り。
媚薬めいた香水の匂いが、するりと鼻腔へ入り込んだ。
目黒千音は眉を寄せ、異常を即座に察する。
迷いなく窓辺へ歩み寄り、勢いよく窓を押し開けた。冷えた外気がどっと流れ込み、不快な甘さを押し流していく。
立花一夜はその一部始終を黙って見ていたが、目にほんのわずかな驚きが宿った。
記憶の中の「彼女」は、もっと柔らかく、従順で、疑うことを知らなかったはずだ。
だが、目の前の目黒千音は冷静で、判断が速い。異変への反応も鋭い。まるで別人だ。
「賢いな」
低い声。褒めているのか、惜しんでいるのか――判別できない。
千音は鼻で笑い、冷ややかに言い捨てた。
「痛い目を見れば、こういう手口にも慣れます」
「……俺がやったわけじゃない」
立花一夜は何かに気づいたように、遅れてそう付け足す。
「分かってます」
彼の立場なら、こんな汚い細工を弄する必要はない。
むしろ――礼を言うべきだ。彼がここにいなければ、控室の扉を開けた瞬間に、松本灯に押さえつけられていた。
松本灯がなぜ控室にいたのか。考えるまでもない。目黒思月の差し金だ。
彼女だけが、ここまで悪意を研げる。人の人生を壊すことに躊躇がない。
そしてその陰湿さを、千音は何度も味わってきた。
短い沈黙。
立花一夜はわずかに思案するような間を置き、唐突に口を開いた。
「立花家に嫁げ。そうすれば、あいつらの執着から逃げられる。新谷グループ程度じゃ、立花には抗えない」
有無を言わせぬ口調だった。
目黒千音は言葉を失う。
嫁ぐ? 冗談じゃない。
問題から逃げたいわけじゃない。あのクズ男とクソ女を、許すつもりもない。
そもそも彼女と立花帝の関係は、ただの一夜の過ち――それだけのはずだ。なのに叔父にまで話が回っていること自体、理解不能だった。
「……一夜のことで、そこまで責任を取る必要はありません」
「一夜のこと?」
立花一夜の眉がわずかに動く。眼差しの温度が、すっと下がった。表情は淡いままなのに、空気だけが冷える。
「運命を変えるチャンスだ」
千音は警戒を強める。
「どうしてそこまで? あなたは私から何を得たいんですか」
立花一夜は、わずかに口元を緩めた。
「選択肢を与えているだけだ。こちらが何を求めているかは、重要じゃない」
掴めない言い方が、かえって不気味だった。
千音の脳裏を、復讐の衝動が掠める。
踏みつけ、奪い、嘲笑った者たちを叩き潰したい。けれど同時に、鏡に映る傷だらけの顔と、向けられてきた蔑みの視線が、心を鈍く縛る。
「私は自分のやり方で片をつけます。立花家に依存して、駒にはなりません」
立花一夜は冷笑した。
「共倒れか。お前が死ねば、奴らは悠々と生きる。それでいいのか」
目黒千音は黙った。
拳を握る指先が白くなる。爪が掌に食い込み、痛みだけが確かだった。
立花一夜が近づき、軽く顎を持ち上げさせるようにして、視線を合わせてくる。
「この顔が治れば、相当美しいだろう。……特に、その目は」
淡い瞳。だが、その視線は千音を見ているようで、別の誰かを透かしているようでもあった。
千音は眉を寄せる。振りほどこうとするのに、身体に力が入らない。
結局、ただ黙って見返すしかなかった。
立花一夜は小さく息を吐き、声の温度を変える。
「助けを受けるのは、弱さじゃない。このまま治療しなければ、傷は完全に残る。元に戻したくないか?」
その言葉だけが、妙に真摯だった。
――戻したい。
当然だ。戻したくて、戻したくて、何度も夜を越えてきた。
だからこそ、簡単に頷けない。甘い餌ほど、代償は重い。
「……ありがとうございます。でも、結構です」
目黒千音は顔を逸らした。自分が折れてしまいそうで、怖かった。
立花一夜は手を離し、静かに椅子へ戻る。落ち着いた所作で身を預けながら言った。
「選択は尊重する。ただ覚えておけ。この世界で永遠なのは、敵でも友でもない。「利」だけだ」
そして、もう一度だけ千音の目を見る。
「承知すれば、最良の医師を手配する。さらに――お前の母、夏目家の産業も取り戻してやる」
