第2章
廊下の喧騒は、私が通りかかった瞬間、すっと途切れた。
連れ立って歩く足音が消え、代わりにひそひそ声とスマホ画面のちらつく光が浮かぶ。視線が一斉に突き刺さる。驚愕、恐怖、そして薄い興奮――まるで檻を破って逃げ出した猛獣でも見るように。
動画は、もう回りきっている。上等だ。
私は無表情のまま人波を割り、指先で制服の襟を整えた。アドレナリンはまだ血管を駆け巡っているのに、頭だけは異様なほど冴えている。
前世の、媚びて、折れて、疑ってばかりの吐き気がするような日々は――もう終わった。
階段口が見えた、そのとき。
廊下の奥から、焦った重い足音がどかどかと迫ってきた。群衆が割れた。海が真ん中から裂けるように、自動で道ができる。そこを、背の高い二つの影が怒気をまとって突進してきた。
ひとりは実の兄、スペンサー。聖ジュード学院の生徒会長。いつだって仕立てのいいスーツを一分の隙もなく着こなし、顔には薄っぺらい「エリート特有の優越感」を貼りつけている。
もうひとりは私の彼氏、ランドン。目立つ赤白の野球部ジャージがやけに眩しかった。
「ブライス!」
スペンサーが大股で詰め寄り、顔を険しくした。嫌悪がそのまま視線になっている。
「お前、いったい何をやってる! レイシーは今も保健室で震えながら泣いてるんだぞ! 洗面台に頭を押しつけた? よくもそんな真似ができたな! ケンドリック家の顔を泥で塗りつぶしやがって!」
ランドンも眉間を寄せ、知らない人間でも見るような目で私を測った。
「ブライス、変わったよ。前はワガママなところはあっても、こんな……こんなひどいことはしなかった。レイシーはお前の妹だろ。どうして手を上げられるんだ」
二人の息ぴったりの断罪を聞いていると、胃の底がぐらりと波打った。
前世。こいつらは「お前のためだ」と言いながら、「悪毒だ」と言いながら、私をマイナス20度の冷凍庫に閉じ込めた。
「妹?」
喉の奥で、笑いにもならない息が漏れた。私は鋭くスペンサーを見据える。
「母親がベッドに潜り込んで、辛うじてケンドリック家の戸籍にねじ込まれた私生児の妹が、私に『しつけ』の話をする気?」
「黙れ!」
痛いところを突かれたみたいに、スペンサーの声が跳ねた。腕が勢いよく上がる。平手打ち――その動きがはっきり見えた。
私は一歩も退かない。むしろ一歩、詰めた。目を逸らさず、真っ向から睨み返す。
「やってみろよ」
私は自分の左頬を指さした。声は侮蔑そのものだった。
「スペンサー・ケンドリック。今日、私に指一本でも触れたら、明日の『ウォール・ストリート・ジャーナル』のゴシップ欄にデカデカと載せてやる。『ケンドリック家の後継者、私生児の妹をかばって実妹を公衆の面前で平手打ち』ってな」
私は唇の端だけで笑う。
「名門の評判が命の理事会のじじいどもが、あなたを生徒会長の椅子に座らせたままでいられると思うか?」
スペンサーの手が、宙で凍りついた。私を睨みつける目が、まるで初めて私を見るみたいだった。
昔のブライスなら、兄が怒鳴っただけで俯いて謝った。いい子の妹を必死で演じた。けど、そのブライスはもういない。刺すような寒さの中で、とっくに死んだ。
「……お前、ほんとに話にならない!」
スペンサーは歯ぎしりして腕を下ろし、スマホを取り出した。
「待ってろ。今すぐ父さんに連絡する。父さんが直々にお前を処分してやる」
私の目の前で発信する。
「父さん。はい、更衣室の件です……動画も見ました。レイシーの頭を水に押しつけて……え? それは分かっています、ですが……はい。承知しました」
通話が進むほど、スペンサーの顔は曇っていく。やがて切ると、優越感と嫌悪が混ざった目で私を見下ろした。
「父さんの命令だ。今すぐ家に戻れ。レイシーに正式に謝罪しないなら、お前のブラックカードは全部停止。ケンドリック家から追い出すそうだ」
「へえ?」
私は眉を上げる。
「レジナルドが、ようやくあの女のベッドから這い出して、父親らしい真似をする気になったってわけか」
「黙れ! 父さんを名前で呼ぶな!」
スペンサーの顔が真っ赤に膨れ上がった。
私は制服のポケットから、家の無制限特権を象徴する黒いカードを抜いた。二本指でつまみ、紙くずみたいに放る。カードはひらりと落ち、スペンサーの足元に転がった。
「持ってけ。あの人に返しとけ」
落ちたカードに目もくれず、私は淡々と言う。
「ついでに伝えろよ。あの計算高い女と一緒に、ケンドリック邸を安っぽい香水の匂いで汚してくれてありがとな。私は前から、あそこに住むのが反吐が出そうだった」
一拍置き、私は首を傾げた。
「謝罪? レジナルドが本気で私に私生児へ頭を下げさせたいなら、まずはタイムズスクエアの大スクリーンで、当時どんな不倫をしてこのスキャンダルを作り出したか、延々ループ再生してもらおうか。……理由として充分だろ?」
「ブライス!」
ランドンがついに我慢できず、一歩踏み出して私の手首を掴もうとした。
「もういいだろ! こんな過激なやり方で俺らの注意を引こうとするのはやめてくれ。お前が折れてくれれば、俺たちは……」
パァン!
乾いた音が、広い廊下に炸裂した。
ランドンの顔が横に弾かれる。白い頬に、五本の赤い指痕が一瞬で浮き上がった。彼は頬を押さえ、信じられないという顔で私を見た。
私はポケットからティッシュを一枚抜き、指先を拭った。まるで有害なゴミに触れたみたいに。
「ランドン」
声は氷水より冷たい。
「今のお前にある本物は、私がくれてやったその平手打ちだけだ。どこから来る自信だ? 私が、お前の注意を引きたくて騒いでるなんて」
「……俺を、殴った?」
ランドンの声が震える。
「お前が裏でレイシーに送ってた、あのきわどいメッセージ。知らないとでも思ったか?」
私は見下ろす。怯えて揺れる瞳を。
「誰かが捨てたゴミを宝物扱いするなんて、自分から品を落とす趣味には感心するわ。いいこと、ランドン。もう終わりよ。これから先、私の人生にあなたの居場所なんてないから」
呆然と固まるランドンの顔と、怒鳴り散らすスペンサーの声を背中に置いて、私はそのまま校舎の正面扉を押し開けた。
初秋の冷たい風が肺に流れ込む。こんなに冴えた感覚は、初めてだった。
ケンドリック邸へ向かうタクシーの中で、私はもう頭の中でリストを作っていた。三十分。荷物をまとめて出ていくには充分だ。
母の遺品。ベーシックな服を何着か。黒いスーツケース一つに収める。それ以外、レジナルドが体裁のために買い与えた高価なガラクタには指一本触れない。
スーツケースを引いて階段を下りると、継母がホールで待ち構えていた。ハンカチを握り、無理やり涙を絞り出しながら、口元の得意げな歪みだけは隠せていない。
「ブライス。家族なのに、どうしてそんなに意地を張るの?」
わざとらしくため息をつく。
「お父様も仰ってたわ。今回のことは、あまりにも悪質だって。でもね、あなた名義の家族信託の5%をレイシーに補償として譲るなら――今回は不問にしてくださるそうよ。あなたの『わがまま』もね」
私は足を止め、ふっと笑った。
これが本命か。校内の揉め事を口実に、狙っているのは母が残した最後の財産。
「涙は節約しろ。ここに男はいない。芝居は見てくれない」
スーツケースを引いたまま、私は彼女の前へ行く。冷たく、その貪欲な顔を見据えた。
「レジナルドに伝えて。5%なんて一銭も渡さない。……それどころか、喉に突き刺さって抜けない、血まみれの骨にしてやるわ」
さらに一歩、距離を詰める。彼女の目の中で、得意が崩れて、剥き出しの恐怖に変わっていくのを眺めながら、声を落とした。
「ついでに忠告しとくわ。娘の躾、ちゃんとしておきなさい。学校で顔を合わせたら――その度に、叩き潰すから」
