第3章

 あの警告を投げ捨てるように言い放つと、私は唯一の黒いスーツケースを引きずり、振り返りもせずにケンドリック邸の門を出た。

 秋風が頬を撫でる。胸いっぱいに、自由の空気を吸い込む。クロエは、表向きの資金源を断ち切って、たった5%の株を盾にすれば私を思い通りにできるとでも? 笑わせる。

 あそこを出た私は、そのままマンハッタンのアッパー・イースト・サイドにある高級アパートへ移り住んだ。

 この部屋を借りた金の出どころ? 向こうは知らない。監視されている資産とは別に、亡くなった母が私のために、極秘の信託基金をずっと前から設定していた。成人するか、あるいは私自身が能動的に動かさない限り、誰にも触れられない仕組みで。

 前の人生の私は、父レジナルドと兄スペンサーに気に入られたくて、それを愚かにも凍結し続けた。けれど今は違う。この金は、独り立ちと復讐のための最初の元手になる。

 転生してからの数日で住まいを整え、前世の記憶を頼りに暗号資産と、近いうちに暴騰する銘柄へ素早く資金を振り分けた。資産はもう何倍にも膨れ上がっている。

 結局、人間は自分の金と資源を握っていないと話にならない。

 態勢を立て直し、私は学校へ戻った。聖ジュード学院の門をくぐった瞬間、空気が変わっているのが肌で分かった。

 更衣室の一件に、元彼ランドンの裏工作が上乗せされて、私は学校中の「共通の敵」になっていた。廊下を歩けば、どこからでもひそひそ声が刺さってくる。

「ほら、あれがあの性悪の狂犬よ」

「ケンドリック家から追い出されたんだって。クレカもないスッカラカンらしいよ」

「自業自得。レイシーをあそこまでいじめたんだもん」

 蚊の鳴くような囁きに、私は視線一つくれてやらない。今の狙いは、レイシーが前世で手に入れた最大の切り札を、先に奪うこと。

 前世、レイシーが校内で好き放題できて、ネット上で私の「いじめの証拠」を完璧に捏造できたのは、手元に一枚の切り札があったからだ——ゾーイ・ソーン。

 ゾーイは人付き合いが苦手で、分厚い黒縁眼鏡を一年中かけている、存在感の薄い子だった。けれど実態は、天才級のハッカーだった。

 前世のレイシーはその秘密を嗅ぎつけ、残酷なやり方で彼女を追い詰め、校内の監視映像の改ざんやチャットログの偽造を強要した。最後にはゾーイが限界を迎えて退学し、精神まで壊してしまった。

 今世では、レイシーが手を出す前に——ゾーイを私の味方に引き込む。

 昼休み、私は学校の最奥にある旧図書館へ向かった。

 扉を押し開けると、隅の方でレイシーが取り巻きを連れ、ゾーイを囲んでいた。レイシーはゾーイの年季の入ったノートパソコンを、見せつけるように高く掲げている。

「ゾーイ、最後に聞くわ。教務システムにハッキングして、あたしの出席率を書き換える気はある?」レイシーの声には毒が含まれていた。「断るなら、そのボロPC叩き割ってやる。それから、食堂の残飯を漁ってる件、校内ネットに晒してあげる」

 ゾーイは壁際に縮こまり、身体を震わせながら、唇を血がにじむほど噛んで黙り込んだ。

「この生意気な——」レイシーの目が吊り上がり、パソコンを床へ叩きつけようとした。

 ドン!

 私は隣の書架を蹴りつけた。重い音が旧館に響き、レイシーの手がびくりと跳ねる。パソコンが落ちかけた。

「誰よ!」レイシーが怒鳴って振り向き、私だと分かると顔色が一瞬揺れた。だが数の優位に縋るように顎を上げる。「ブライス? 何しに来たの? 家から追い出されて、こんなゴミ溜めで存在アピールしてるわけ?」

 私は冷笑しながら近づき、取り巻きの顔を順に見た。更衣室での私を思い出したのか、彼女たちは反射的に二歩ほど後ずさった。

「それ、置きなさい」

 レイシーを見据え、温度のない声で告げる。

「なんで? これはあたしが躾ける相手よ。あんたに関係ないでしょ」レイシーが歯噛みする。

 返事をする気すら失せた。私は一歩詰め寄り、手の甲で容赦なく頬を打ち返した。

 パァン!

 レイシーがよろめき、パソコンが手から飛んだ。私は即座に受け止め、その流れでブーツの先をレイシーの脛に叩き込む。

「ぐっ——!」

 次の瞬間、「どさっ」と鈍い音。レイシーは床に膝をついた。

「……あたしを殴った!?」レイシーが頬を押さえ、金切り声を上げる。

「殴るのに予約でも必要?」私は見下ろし、冷たく言い捨てた。「その犬ども連れて消えなさい。これからゾーイは私が面倒を見る。指一本でも触れたら、反対側の頬も腫れ上がるまで叩く」

 レイシーは毒々しい目で睨み返したが、私の纏わりつく殺気に気圧されたのか、結局は取り巻きを引き連れて転げるように逃げ去った。

 旧図書館に残ったのは、私とゾーイだけ。

 ゾーイは助けられて安堵するどころか、勢いよく一歩下がり、警戒心むき出しで私を睨んだ。

「……なんで、助けたの。信じない。あんたも、あいつらと同じ金持ちのクズよ。人を弄んで笑ってる、頭のイカれた連中だ」

 その構えを見ても、私は欠片も不快にならなかった。むしろ好ましい。ハッカーに必要な資質は、疑ってかかることだ。

 私は腰をかがめてパソコンを差し出し、ハンドバッグから小切手帳を取り出す。万年筆で躊躇なく金額を書きつけ、切り取って彼女に差し出した。

「10万ドル」淡々と言う。「一年分の技術サポート料よ」

 ゾーイは小切手の額を見て、瞳孔がきゅっと縮んだ。

 だが、すぐに歯を食いしばり、それを受け取ろうとしない。代わりにさらに身を引く。

「買収? それとも罠? レイシーはタダ働きさせたいだけ。じゃああんたは、10万ドルで何を買うの。都合が悪くなったら私を身代わりに売る権利?」

「被害者ぶるのはやめなさい、ゾーイ」

 私は小切手を引っ込め、指先に挟んだまま彼女の視界でひらひらさせる。声を少しだけ落とした。

「あなたの闇掲示板でのハンドルネームがファントムだってことも知ってる。自衛のために、先月の時点で学校の教務システムに、バックドアを三つ仕込んであるのもね。あなたは天才よ。彼らを壊せる武器を持ってる。ただ、反撃する覚悟が足りないだけ」

 ゾーイの顔から血の気が引いた。息を呑み、時間が止まったみたいに固まる。抱え込んだパソコンを握り潰す勢いで掴み、私が秘密を全部見抜いていることに怯えたのがはっきり分かった。

「安心して。慈善で来たわけじゃないし、罠に嵌める趣味もない」

 私は小切手を強引に、彼女の硬直した指の間へ押し込む。

「その金で、そのガラクタを捨てなさい。大規模な復号スクリプト走らせたら熱で落ちるようなオンボロじゃなくて、ちゃんとしたまともな環境を揃えるの」

 一拍置いて、レンズ越しの視線を真正面から捉える。

「私が買うのは、あなたの技術。レイシーとスペンサー、それからランドンの動きを全部、私に見せて。あいつらは私を潰したい。あなたも、もう追い詰められてる。……今、あいつらを殺したいって気持ちが同じなら、組めばいい。底まで剥いで、何もかも白日の下に晒してやる」

 ゾーイは呆然とした。手の中の小切手と、さっきレイシーを床に沈めた私のブーツを交互に見つめる。瞳の奥で、恐怖が別の色へ、じわじわと溶けていく——重く、熱い何かへ。

「……まだ、全部は信じられない」唾を飲み込み、声は小さいままだが震えは止まっていた。

「賢い判断ね」私は口角だけをわずかに上げ、扉へ向かう。「疑ってるくらいが長生きできる。私の本気は見せる。24時間以内に換金して。それから新しい環境で、私に——あなたと私だけが読める暗号メッセージを一本送って」

 古い木床をブーツが叩く、こつ、こつという残響を背に、私は重い扉を押し開ける。振り返らずに、片手を軽く振った。

「よろしく、ファントム」

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