第2章

 涼はソファの前に立ち尽くし、目の前の光景を必死に拒絶しようとしていた。こんなことが現実であるはずがない。きっと光の加減か、角度のせいで――

 だが、何度瞬きをしても、目の前の光景は変わらない。

 三十六歳の恵は、擦り切れたTシャツ一枚の姿でソファの上に丸まっていた。両脚は不自然なほど鋭角に曲がり、ほとんど胸に押し付けられている。その肌は、ぞっとするような紫がかった灰色に変色していた。

 腰から下はすでに原型を留めていなかった。皮膚、体液、そしてどす黒い排泄物が、破れた合皮の表皮やカビだらけのウレタンと混ざり合って凝固し、まるで肉体が家具そのものに溶け込んでしまったかのようだ。ソファは底なしのすり鉢状に凹み、縁の部分は完全に腐り落ちて、内部に巣食う黒カビを露わにしている。

 それはまるで……あまりにも長い間ここに座り続けたせいで、肉体がソファに沈み込み、一体化し始めてしまったかのようだった。

 胃液が喉の奥に込み上げてくる。涼は顔を背け、咄嗟に口元を手で覆うと、激しい吐き気を必死に飲み込んだ。

「あの子、私たちを近づけようとしなかったんです」

 背後から、涙に濡れた静子の声が聞こえた。涼が振り返ると、ダイニングチェアに腰掛けたその中年女性は、両手でハンカチを固く握りしめていた。

「恵は重度の対人恐怖症で、自閉症でもありました」静子は顔を上げ、頬を涙で濡らした。

「あのソファだけが、あの子の安全な場所だったんです。私たちがなんとかしようと……無理にでも立ち上がらせて、病院へ連れて行こうとするたびに、あの子は気を失うまで叫び散らして……」

 涼は母親を見て、それから再びソファの上の、もはや人の形を成していない塊へと視線を戻した。脳が状況の理解を拒絶している。一体どうすれば、高橋家の人々はこんな状況を……。

「どのくらいだ?」松本警部の声が、涼の思考を断ち切った。

「え?」健一はまばたきをした。

「娘さんは、どのくらいこのソファにいたんだ?」

「ああ……随分と長いです」健一は眼鏡を押し上げ、視線を泳がせた。

「ですが、ひどくなったのは最近なんです。私たちはベストを尽くしました。本当に。食事も与えていましたし、水も運んで……」

 松本は答えなかった。ポケットからニトリル手袋を取り出してゆっくりと装着すると、一歩踏み出すごとに肩を強張らせながら、ソファへと歩み寄った。

 異臭がさらに強くなる。それは鼻をつくような鋭い腐敗臭ではなく、密閉された空間で、長期間にわたり何かがゆっくりと腐り続けてきたような、重くまとわりつくような悪臭だった。

 松本はソファの前にしゃがみ込んだ。

 ベテラン刑事の背中が硬直したのを涼は見た。松本は、丸三秒間、そのまま凍りついていた。

「涼」松本の声は低く平坦だったが、その奥に何かを押し殺しているのが涼にはわかった。

「検視官を呼べ。それから鑑識もだ」

「鑑識ですか?」涼は息を呑んだ。

「警部、これは……つまり、病死ではないんですか?」

 松本はゆっくりと立ち上がり、涼を振り返った。その顔は険しく、両目には涼がこれまで見たこともないような冷酷な光が宿っていた。

「こっちへ来い」

 涼は歩み寄り、無理やり再びソファへと視線を向けた。

 松本が指差したのは、恵の太ももの内側だった。

 涼はそれを見た。

 灰黒色に変色し、壊死した肉の表面で、数匹の白いウジ虫がゆっくりとうごめき、死んだ皮膚を穿っていた。涼の視線が無意識に上へ向く――恵の髪の毛の中にも、蠢くものがあった。

 一匹や二匹ではない。脂ぎった髪の束の間を、無数の白いウジ虫が這い回り、その一部はすでに額へと這い出し始めていた。顔面は長期間何かに浸食され続けたかのように、不規則な赤い斑点で覆われている。頬の皮膚はソファの肘掛けに癒着しており、剥がれかけたその縁からは、青白い皮下脂肪の層が覗いていた。

「昨日、あなた方が部屋を出たとき、娘さんはこんな状態だったのか?」松本は振り返らなかったが、その声は背後にいる高橋夫妻の耳にはっきりと届いていた。

「いえ……違います」静子の声が震える。

「あの時は大丈夫でした。少し静かではありましたが、大丈夫だったんです……」

「少し静かではありましたが、大丈夫だった」松本は抑揚のない声で繰り返した。

 彼は再びしゃがみ込み、今度はさらに身を乗り出した。松本が恵の顔をじっと見つめ、やがてその腕へと視線を移すのを、涼は黙って見守っていた。松本は手袋をした手を伸ばし、ソファの縁から垂れ下がっている恵の右手を慎重に持ち上げた。

 べりっ、という音が涼の耳に届いた。柔らかく粘り気のある、きつく貼り付いた粘着テープを剥がすような音だ。松本の動きが止まった。

「皮膚が……」ベテラン刑事の声は微かなものだった。

「すでに剥離し始めている」

 涼は無理やり身を乗り出した。松本が持ち上げた腕の下、肘掛けの部分には灰白色の痕跡が残っていた。恵の皮膚だ。それが薄い膜のように、合皮の表面にへばりついている。腕そのものも筋肉組織の腐敗が進行しており、どす黒い赤色に変色した腐肉の中を白いウジ虫が穿ち、その奥にはうっすらと白骨が透けて見えていた。

 松本は慎重に腕を元の位置に戻すと、肘掛けから、やがてソファの座面部分へと視線を移した。

「警部?」涼は小声で尋ねた。

 松本は答えなかった。手を伸ばし、ソファのクッションの端を慎重に持ち上げる。

 より一層凝縮された悪臭の波が、二人の鼻腔を突いた。

 ウレタンは完全に腐りきっており、黒カビが蜘蛛の巣のように四方八方に広がっていた。だが、さらに異常なのはそのすり鉢状の陥没だった。恵の肉体はソファの奥深くへと沈み込み、まるで目に見えない力にゆっくりと飲み込まれてしまったかのようだ。

 破れた隙間の奥には、どす黒い排泄物、腐りかけた皮膚の残骸、そして身の毛もよだつほど無数に蠢く白いウジ虫の群れが見えた。

 それらは人体組織とソファの素材の境界を這い回り、まるで両者がとうの昔に同化してしまったかのようだった。

 松本は数秒間その陥没を見つめ、それからゆっくりと立ち上がり、手袋を外した。その視線はリビング全体を舐めるように動き、清潔なカーペット、整然と積まれた雑誌、塵一つないローテーブルを捉え、やがて健一と静子の姿で止まった。

「昨日の朝に家を出て、今日の午後に戻ってきた。それで間違いないな?」

「はい」健一の声には、深い疲労の色が滲んでいた。

 松本は頷き、それ以上は何も言わなかった。窓際へ歩み寄り、スマートフォンを取り出してどこかへ電話をかけ始める。

 涼はその場に立ち尽くし、今見たばかりの光景を脳内で再生していた。あのウジ虫、あの陥没、ソファに張り付いた皮膚。

 昨日の朝から今日の午後。丸一日程度しか経っていない。

 だが、あの腐敗の進行具合は、そして家具と肉体が同化しているあの状況は――たった一日で形成されるものなのだろうか?

 涼の視線が再び恵へと向かう。見開かれたままの彼女の瞳は白く濁り、虚ろな光を宿して虚空を見つめている。テレビの明滅する光の中で、その目は声なき悲鳴を上げているように見えた。

「涼」松本が通話を終えて振り返る。

「入り口に規制線を張れ。誰も中に入れるな」

「了解しました」

 涼は玄関へと身を翻したが、リビングを出ようとしたそのとき、不意にテレビの画面がフラッシュのように眩く光を放った。

 思わず振り返る。

 画面から放たれた極彩色の光が、薄暗いリビングを乱舞する。アニメのウサギは相変わらず画面内を飛び跳ね、大仰な笑い声を上げ続けていた。

 その明るく陽気な色彩がソファを、そして恵の顔を撫でていく。赤、青、黄色といった光と影が彼女の顔面を舐めるように流れ、髪の毛の間で蠢くウジ虫を、頬に浮かぶ痛ましい赤い斑点を、そしてソファに癒着した腐肉を不気味に照らし出していた。

 陽気な笑い声がリビングに響き渡る。恵の大きく見開かれた両眼は、ただ真っ直ぐに画面を見つめ続けていた。まるで彼女が一度もこの場所から動いていないかのように、そして、二度と戻らない誰かを今も待ち続けているかのように。

 涼は息を呑んだ――温かな家庭であったはずのこの場所は、今や完全な悪夢の空間へと変貌していた。

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