第2章

夜明けの光が、ゆっくりと部屋を明るくしていく。私の腰にはまだ、奏介の腕が回されていた。

私は石のように動かず、寝たふりを続けた。目は紙やすりで擦られたように乾いて痛いが、瞬きをする勇気はない。涙がこぼれ落ちてしまうのが怖かったからだ。

七時きっかり。アラームが鳴り響く。奏介は寝返りを打ってそれを止めると、私の額にキスを落とした。「おはよう、美咲」

「おはよう……」自分でも驚くほど、声が枯れていた。

「どうしたんだ、その声?」彼は眉をひそめた。

「エアコンが効きすぎたのかも」

朝食の間、私は彼の挙動の一つひとつを目で追った。パンをスライスする手つき、コーヒーを飲むときにわずかに眉を寄せる癖、『日経時報』を読みながら無意識に指輪を回す仕草……。ライブ配信に映っていたあの男も、同じ癖を持っていなかったか?

「美咲?」奏介の声で、私は現実に引き戻された。

「ううん、ウェディングドレスのことを考えてただけ」私は機械的にスクランブルエッグをフォークですくい、口に運んだ。

「あまり根を詰めすぎるなよ」彼は立ち上がり、スーツのジャケットを羽織った。。「今日もまた残業になりそうだ」

「また永井さんの案件?」

「ああ、もうすぐ片付くから」彼は私にキスをした。

コロンの香りが鼻腔をくすぐる。馴染みのあるウッディノート。昨夜のあの、鼻につくようなバニラムスクの甘い匂いはしない。

「行ってきます」奏介はブリーフケースを掴み、出て行った。

マンションのドアが閉まった瞬間、私は椅子に崩れ落ちた。あの三つの傷跡の残像が、焼きごてのように脳裏に焼き付いて離れない。

一日中、拷問のような時間が続いた。設計事務所にいても、私は建築図面をただぼんやりと眺めることしかできなかった。頭の中で響くのは一つの思考だけ。――今夜九時、答えが出る。

午後八時、スマホが震えた。

奏介からのメッセージだ。「ごめん、今夜も残業だ。先に寝ててくれ」

私は画面を見つめ、キーボードの上で指を彷徨わせた。

「わかった、無理しないでね」とだけ返信する。

九時ちょうど。私はあの忌々しいサイトを開いた。

今夜の画質は鮮明だった。私は必死にスクリーンショットを撮り続ける。あの三つの傷跡、その細部に至るまで、私の記憶と完全に一致していた。

私は画面を見続けた。これはただの偶然だと、自分に言い聞かせるために。だが、カメラが男の左手をなめた瞬間――。

あの指輪。

呼吸が止まった。ハートを模したデザイン、独特な装飾が施され、そして内側に刻まれた「Sousuke & Misaki」の文字。

私が奏介に贈った婚約指輪だ。すべての自己欺瞞が、音を立てて崩れ去った。

震える指でスクショを撮り続ける。その時、画面の中の女が気だるげに伸びをし、右足首にある小さなフェニックスのタトゥーがあらわになった。

心臓が止まるかと思った。去年の八月、私が玲奈に付き添ってタトゥーの店で入れさせたものだ。

松本奏介と、高橋玲奈。私の婚約者と、私の親友。抗がん剤治療というもっとも暗い日々を支えてくれた、かけがえのない存在。

十時十五分、配信終了。私はベッドの上で放心状態のまま、手の中で震えるスマホを握りしめていた。

十時三十分、鍵の回る音がした。

「美咲?」玄関から奏介の声がする。リビングの明かりがついているのを見たのだろう。「まだ起きてたのか?」

「眠れなくて」私は必死に、平然とした声を装った。

「ごめんよ、美咲」彼はネクタイを緩めながら近づいてきた。「背中が痛くてたまらなくてさ、家でやることにしたんだ。ビデオ会議ならどこでもできるしな」

「また背中が痛むの?」私は心配そうに尋ねたが、心臓は早鐘を打っていた。

「ああ、座りっぱなしだったからな」彼は肩を揉みながら、シャツのボタンを外し始めた。

「よかったら……マッサージしてあげようか?」気付けば、そんな言葉が口をついて出ていた。

奏介は手を止め、驚いたように私を見た。「マッサージなんてできるのか?」

「ネットで覚えたの」私は無理やり微笑んだ。「あなたが背中が痛いってぼやくから、動画を見て勉強してたんだ」

「本当か?」彼が目を細め、愛おしそうな表情を見せる。「美咲は本当に優しい」

「先に横になってて。ボディローションを持ってくるから」

私はバスルームへ逃げ込み、洗面台に手をついて荒い息を吐いた。

落ち着け、美咲。これがチャンスだ。

顔に水を浴びせ、ローションを手に部屋へ戻る。奏介はすでにベッドにうつ伏せになっていた。ランプの光を浴びて、露わになった背中が鈍く光っている。

私の手が彼の肩に触れる。慣れ親しんだその感触に、胃が縮み上がるような思いがした。こみ上げる吐き気をこらえ、私は指を滑らせ始めた。

「もう少し下……ああ、そこだ」奏介が満足げな声を漏らす。

呼吸が、不意に止まった。

右の腰骨から五センチほど上――そこには、縁がわずかに赤みを帯びた円形の傷跡がくっきりと残っていた。震える指でその輪郭をなぞる。一寸の狂いもなく、さっき撮ったスクショと完全に一致する。

「裏返って」自分の声とは思えない声が出た。「腰の方もやるから」

奏介は素直に従った。左側の少し低い位置に、色の濃い二つ目の傷跡が目立っている。そして尾てい骨の右側、わずかに窪んだ三つ目の傷。

位置、大きさ、傷の縁の形に至るまで……すべてが同じだ。

「どうした?」不意に奏介が私の手を掴んだ。「震えてるぞ」

私は反射的に手を引っ込めた。心臓が早鐘を打っている。「なんでも……ないわ。ちょっと寒気がしただけ」

「こっちへおいで」彼は私を腕の中に引き寄せた。「温めてやるよ」

かつては世界で一番安全だと思えたその腕の中で、私の体は強張っていた。胃が激しく波打つ。以前は安らぎをくれた馴染みのコロンの香りが、今はまるで猛毒のような悪臭に感じられた。

「美咲、本当に大丈夫か?」奏介が私の髪を撫でる。「昨日の夜から様子が変だぞ」

「式の準備で疲れてるだけ」私は彼の胸に顔を埋めた。目を合わせる勇気がなかったからだ。

「あまり自分を追い詰めすぎるなよ」彼は私の頭頂部にキスをした。「疲れてるなら、もう寝なさい」

十分後、奏介の寝息が規則正しくなった。私は慎重に彼の腕を外し、裸足のままバスルームへと向かうと、背後で鍵をかけた。

鏡に映る自分は、今朝よりもさらにひどくやつれていた。目の下に深い隈ができ、唇からは血の気が完全に引いている。

冷たいタイルの上に座り込み、スマホのアルバムを開く。スクショはそこに残っていた――その一枚一枚が、ナイフとなって心臓を抉ってくる。

指輪の画像を拡大する。指輪のハートのデザインが、鮮明に映し出されていた。続いてタトゥーの写真――フェニックスの羽の一本一本まで、私の記憶通りだ。

私は慌てて立ち上がり、便器に駆け寄ってえずいた。苦い胃液しか出てこない。

午前三時。私は忍び足で書斎に入った。机の上には奏介のノートパソコンが静かに置かれている。パスワードは知っている――私たちの記念日だ。

なんという皮肉だろう。

ネットバンキングのページが開く。クレジットカードの明細を表示し、「ホテル」で検索をかける。

心臓が止まった。

先週の水曜日、52万円、プレジデンシャル・スイート。あの日、奏介は出張でクライアントとの交渉があると言っていたはずだ。

震える指でスクロールを続ける。ケープコッドのマリーナでのヨットレンタル、112万円。高級ブランドのジュエリー、180万円。どれも私の知らない支払いばかりだ。

ジュエリー? 玲奈に宝石を買い与えたというの?

携帯のカレンダーを開き、照らし合わせる。

最初の配信日、「出張にてクライアントとの交渉――終日」

二回目の配信日、「日本からのクライアントと会食」

そして今夜、「デロイトのチームとの残業」

すべての嘘が、完璧に辻褄が合っている。

「クソッ」

生まれて初めて、そんな汚い言葉を吐いた。

三年だ。骨髄移植で救われた命を機に始まった、三年の交際期間。彼は私の命の恩人であり、二度目の人生をくれた天使だった。

その天使が今、悪魔の正体を現したのだ。

不意にスマホが震え、画面が光った。

奏介からのメッセージだ。「美咲、どこにいるんだ? ベッドが冷えちまうよ」

画面を見つめていると、不意に笑いがこみ上げてきた。ベッドが冷える? 私がいないから? それとも、別のベッドから帰ってきたばかりだから?

急いで閲覧履歴をすべて削除し、深呼吸をして心を落ち着かせる。

「トイレよ。すぐ戻るわ」と返信する。

鏡の前に立ち、蒼白な自分の顔を見つめる。ほんの数日前まで、私は結婚式を楽しみにしていた。ドレスも、花束も、誓いの言葉も――すべてが完璧だったはずなのに。

今、その完璧な泡は弾け飛んだ。

だが、壊れるわけにはいかない。まだだ。

理由を知る必要がある。なぜ玲奈なのか? なぜ配信などしているのか? あの匿名のリンクを送ってきたのは誰なのか?

そして何より――この裏切りはどこまで深いのか。

私は顔を洗い、最高に甘い笑顔を作って、寝室のドアを押し開けた。

「ごめんね、奏介」私は布団に潜り込み、自分から奏介の唇にキスをした。「戻ったわよ」

彼の唇からは、知らない味がした。玲奈の口紅だろうか?

奏介は私を引き寄せ、耳元で囁いた。「おやすみ、美咲」

「おやすみ」

そう答えながら、私は爪が食い込むほど強く、掌を握りしめた。

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