第2章
名指しされ、渡辺芽衣は一瞬だけ呆けた。だがすぐに、瞳の奥に得意げな光が走り、警官の前へ進み出る。
「警察の方、私です。被害者の渡辺芽衣です。姉も、一時の気の迷いで……本心じゃないんです。私はもう追及しません」
名を呼ばれた以上、昨夜のバーの件に違いない。
あの件は渡辺家の人間以外には、婚約者の柏木航平にも話してある。
航平は“見る目”がある。渡辺家の本当の令嬢である自分しか、婚約者として認めない男だ。
なのに柏木の祖母は、どこか乗り気ではないらしい。
なら、このバーの件を利用すればいい。
渡辺瑚夏を叩き出せる。ついでに、柏木の祖母にも“誰がまともか”を思い知らせられる。
「お姉ちゃん。私、お父さんたちに通報させてないよ。たぶん航平兄さん。私が悔しい思いするの、嫌なんだって」
芽衣は瑚夏に向け、挑発が滲む視線を投げた。
瑚夏は見ていないふりをした。
道化の芝居に興味がないみたいに、ただ静かに黙っている。
「同志、あの子も、実の娘を取り戻したことで心のバランスを崩して、愚かなことを……」
渡辺明山がゆっくりと玄関前の段を下り、警官に歩み寄る。表情は厳しく、秘書に指示でも出すような口調だった。
「十数年育てた子です。渡辺としては、子どもの責任を追及するほど狭量ではない。ここまでで終わりにしましょう」
そう言って家長の威厳を見せつけるように、瑚夏へ冷たく命じる。
「警察の方に約束しろ。これからはちゃんと生きろ」
瑚夏の唇に、薄い冷笑が浮かんだ。
「渡辺さん、まず警察の方の話を聞いたらどうです?」
担当警官は険しい表情で全員を見回し、告げた。
「渡辺さん。三名が交番に出頭しました。渡辺芽衣さんに買収され、渡辺瑚夏さんを陥れようとしたと供述しています」
「……なっ」
渡辺明山の顔が一瞬で固まる。ぎこちない色が滲んだ。
「そんな、ありえない!」
芽衣は目を大きく見開き、危うく取り乱しかける。
一人につき20万渡した。そんな連中が、どうして自首する?
「自分で金を払って、自分を傷つける人なんて――」
小林美子が娘を庇うように声を上げた。
昨夜は推測だった。だが今は、ほぼ確信している。芽衣の自作自演だ。
それでも娘に罪を負わせるわけにはいかない。
「いい度胸ね、瑚夏! 芽衣を傷つけるだけじゃ足りず、今度は芽衣を陥れるの? 渡辺家に残れると思った? 冗談じゃない。恩知らずなんて二度と養わない!」
美子は瑚夏を睨みつけ、脅すように言う。
「素直に『捏造でした』って認めなさい。そうすれば今回だけは見逃してあげる。引っ越し代も出す。でも逆らうなら容赦しない」
瑚夏は淡々と返した。
「渡辺奥さん。警察の捜査は証拠なしで進むんですか?」
美子は言葉に詰まる。警官の前で体裁を保つため、瑚夏を鋭く睨むだけで黙った。
担当警官は瑚夏を一瞬だけ見て、かすかな同情を浮かべる。だがすぐ事務的な口調に戻した。
「出頭した三名は、渡辺芽衣さんとのチャット記録と、送金記録も提出しています」
動かぬ証拠だった。
「……ありえない!」
芽衣はもう弱々しい演技を続けられず、甲高い声を上げる。
削除させたはずなのに、どうして残っている?
渡辺明山は内心では把握していた。警察が理由もなく来るはずがない。
彼は冷たく芽衣を一瞥する。恥を晒した、そう切り捨てる目だ。
それでも警官に向き直ると、さっきまでの傲慢が嘘のように、三分ほど愛想を貼りつけた。
「警察の方、家の内輪の揉め事でして。二人とも学生ですし、大ごとにしないでいただけませんか」
娘が交番で記録でも残せば汚点になる。
美子もすぐに続く。
「事情があるんです。実の娘の芽衣が戻ってから、瑚夏は何度も芽衣を傷つけてきました。もし芽衣がやったのだとしても、限界だったんでしょう。どうかご理解を」
担当警官の視線が、段の脇に転がるスーツケースへ落ちた。少し考えたのち、言う。
「今回、深刻な結果は出ていません。被害届もありませんから、連行はしません。ただし渡辺芽衣さんは渡辺瑚夏さんに謝罪し、反省してください」
この家は、実娘を取り戻した途端に養女を切り捨てにかかっている。
真っ向から芽衣を連行すれば、その反動が瑚夏へ向く可能性もある。
大事を小事に――それが妥当だ。
だが結論だけは突きつける。芽衣が瑚夏を陥れようとしたのは事実だ。
芽衣は言い逃れできないと悟り、眉を寄せ、委屈そうに頭を下げる。
「お姉ちゃん、ごめんなさい……。でも、お姉ちゃんが私にお粥をかけて、ドレスを台無しにしたのも、ただのうっかりで……私が気にしすぎて……」
言い終える前に、瑚夏が冷たい声で遮った。
「警察の方。渡辺芽衣は金で人を雇い、私を陥れようとしました。証拠も揃っています。私は正式に被害届を出し、責任を追及します」
目的は、渡辺家の夫婦に真相を見せることだった。
芽衣が過去の件で同情を買うなら、ちょうどいい。警官の前で吐かせればいい。
「……お前!」
渡辺家の三人が同時に瑚夏を見る。理解不能だという顔。
担当警官は眉をひそめた。
(この子、状況が見えてない……)
「お父さん、お母さん。お姉ちゃんは恩知らずじゃありません。ここに残りたいだけなんです。残らせてあげて……私はできるだけお姉ちゃんを避けるから」
芽衣はすぐ泣きそうな顔を作る。
そう言えば言うほど、両親は瑚夏を嫌う。
「だめ。私たちはあなたに欠けた分を返さなきゃ。これ以上、嫌な思いはさせない」
美子は即座に否定した。
渡辺明山は半目で瑚夏を見下ろし、不愉快そうに言う。
「瑚夏。和解の条件を言え。渡辺家に残る以外なら、何でも聞いてやる」
瑚夏がふっかけてくるなら、痛い目を見せるだけだ。
「条件は簡単」
瑚夏は感情の揺れもなく、冷ややかに言った。
「芽衣が言った『粥をかけられた』『ドレスを壊された』を含め、私が彼女を傷つけたと言われてきた件は全部、彼女の自作自演。その場で認めて、私に謝罪する。それで和解」
「お姉ちゃんがそこまで言うなら……私が悪かったって認めればいいんでしょ」
芽衣は涙を滲ませ、必死に堪えている風を装う。
まだ演じる気?
瑚夏は冷笑した。
「謝るなら態度で見せて。どうやって私を嵌めたかまで、手順を再現して」
芽衣は拳を強く握りしめる。許されるなら、この忌々しい綺麗な顔を引き裂きたい。
瑚夏は警官へ向けて尋ねた。
「警察の方。金で人を雇って陥れた場合、どういう処分ですか?」
「結果が重大でなくても、金銭の授受があれば行政拘留。3か月から半年程度です」
芽衣の身体がびくりと震えた。
拘留――名声は終わる。
選択肢はない。
芽衣は不本意ながら、粥とドレスの件が自分の仕組んだものだと認めた。泣きながら、まるで無理やり言わされているように。
瑚夏の冷えた視線が、渡辺明山と美子をなぞる。
「私があなたたちの娘を受け入れないって、ずっと言ってたよね。今、目が覚めた?」
明山はその場で固まった。頬を殴られたみたいに熱い。
美子は芽衣を抱きしめ、毒の混じった目で瑚夏を睨む。
「それでもあんたが追い詰めたのよ! さっさと出ていけ。この門を出たら、生きようが死のうが関係ない!」
「望むところ」
瑚夏は薄く笑った。
「警察の方に証人になっていただきたい。渡辺家の実娘が繰り返し私を陥れようとしたため、私は本日をもって渡辺家を出ます。今後、渡辺家とは一切の関わりを持ちません」
瑚夏は明山夫婦へ一礼し、顔を上げて小さな顎をわずかに持ち上げた。
「育ててくれてありがとうございました。もう二度と会いませんように」
それから芽衣へ近づき、彼女にだけ聞こえる声で告げる。
「兄の顔に免じて、今回は見逃す。身のほどを知って」
言い捨てて、瑚夏は踵を返した。
姪は習い事へ行っている。
世話をしてくれている英子に金を振り込み、姪を頼むと念押しする。
スーツケースすら持たず、門へ向かって歩き出した。
日常の服なんてどうでもいい。彼女は困らない。
明山は体面を重んじる男だ。警官の前で養女に反撃され、縁を切られ――顔色は最悪だった。
そのとき、渡辺邸の門前から公安局の制服を着た職員が三人入ってきた。
肩章を見るに、署長か副署長クラス。
そのうちの一人が瑚夏を見るなりスマホを開き、何か確認してから、年長者らしい穏やかな笑みを浮かべる。
「あなたが、渡辺瑚夏さんですか?」
門の騒ぎに気づいた明山が振り返り、山本署長だと気づく。
彼は美子へ小声で囁いた。
「唐沢家は力がある。山本署長が直々に来たなら、唐沢さんがやられた件で瑚夏を――」
「牢の底まで座らせなさいよ」
美子は悪意を隠さない。
芽衣の瞳がぱっと明るくなる。
渡辺瑚夏、終わりだ。
「山本署長……娘のしつけが至らず、まことに……」
明山は慌てて山本署長へ駆け寄り、媚びを全開にした。
