第4章
「妹……やっと見つけた」
男の声は、抑えきれないほど昂っていた。
「……」
つまり――この人が、実の兄。
「……息、できないんだけど?」
瑚夏は抱き締められたまま、椎名蒼介の胸を押した。
「悪い。……嬉しくてさ」
椎名蒼介が腕を緩める。目の縁が赤い。
瑚夏は顔を上げ、まじまじと兄を見た。
「お兄ちゃん、めちゃくちゃ顔がいい」
「さすが俺の妹。口も顔も甘いな」
椎名蒼介は昔から褒められ慣れているはずなのに、妹に言われると別格らしい。眉尻に、誇らしげな色が乗った。
「私のほうが、ちょっとだけ上だけどね」
瑚夏は相変わらず、ふわりと柔らかく笑う。
初対面なら緊張して当然だ。けれど椎名蒼介を見ていると、なぜか冗談が言いたくなる。
「そうだな。世界で一番きれいなのは俺の妹だ」
椎名蒼介は長い指で瑚夏の額の真ん中を、ちょん、と突いた。声は甘やかすみたいに優しい。
顔の良さで誰かに負けたと認めたことはない。たとえ“公認”の結城朔夜が相手でも。
けれど妹に負けるなら、ただ嬉しいだけだ。
卵みたいに滑らかな白い肌。潤んだ澄んだ瞳。冷たさを帯びた細い鼻筋。花がほどけるみたいな紅い唇。
父と母のいいところだけを極限まで継いだ顔――そうとしか思えない。
兄妹は山本署長に礼を言い、椎名蒼介は瑚夏の手を引いて地下駐車場へ向かった。
「帰ろう。家へ」
「……お兄ちゃん、この車?」
駐車スペースに鎮座していたのは、世界に3台しかないスーパーカー。
確か価格は――1億5000万。
「気に入らない? 今日はこれで我慢して。帰ったら好きなの選べばいい」
椎名蒼介は助手席のドアを開け、瑚夏が乗りやすいように手を添える。
「……」
好き嫌いの問題じゃない。
実の両親って、もしかして別方向の極端――とんでもない富豪なんじゃ。
事情を聞こうとした、そのとき。
電話が鳴った。
『ボス! 出ました! 試験結果、出ました!』
受話器の向こうの声は、興奮で震えている。
瑚夏は十秒ほど固まってから、ようやく息を吸った。
「……今行く」
通話を切り、心臓の暴れを押し込めてから椎名蒼介を見る。
「お兄ちゃん、ちょっと用事があるの。午後、自分で帰る」
椎名蒼介は聞きかけて、やめた。
言わないなら聞かない。妹のプライバシーは守る――彼のルールだ。
「どこだ。送る」
瑚夏はショッピングモールの住所を告げる。椎名蒼介は“友だちとの待ち合わせ”だとでも思ったらしい。
目的地に着いて、LIMEを交換。
「終わったら電話して。俺は行けないかもしれないから、運転手を寄こす」
「うん」
瑚夏が素直に頷くと、椎名蒼介は堪えきれず頭を撫でた。溺愛が隠せない。
撫でられた瞬間、瑚夏はわずかに立ち尽くす。
――以前も、こうして撫でてくれた人がいた。
渡辺直樹。
渡辺明山と前妻の息子で、小林美子は直樹の母が亡くなったあとに入ってきた継母だ。
渡辺家は商いの家だが、渡辺おばあさんが亡くなって渡辺明山が実権を握ってから、グループは赤字続きで縮小した。
立て直したのは直樹が大学を出てからだ。
十歳差でも、直樹は瑚夏を実妹以上に可愛がった。
いま彼は病気で海外療養中。もう二か月になる。
――会いたい。
椎名蒼介の目立ちすぎる車が去るのを見届け、瑚夏は踵を返してモールの地下駐車場へ。
自分の小さな車に乗り、別荘へ向かった。
二階、実験室。
「……成功した?」
ドアをくぐるなり、瑚夏は息を詰めて問いかけた。
車の中で聞けなかった。答えが怖かったから。
「ボス!」
瀬戸翼が飛びつくように抱きしめてくる。
「……」
今日、何の日。
どこへ行っても抱きしめられる。
「……早く言って?」
「成功した。ボス、成功した!」
瀬戸翼は抱えたまま、その場でぐるぐる回り始めた。
成功――?
渡辺直樹が助かる?
瑚夏は呆然と、回されるまま言葉を失う。
新薬の名は感心丸。今回が三回目の試験だ。
成功すれば、療程で心不全患者の寿命を5年から10年延ばせる見込み。
そもそもこの薬を作り始めた理由は、直樹の心臓病だった。
二年前の第一世代は延心丸。
直樹がここまで持ったのは、それのおかげ。
今回の海外は脚の手術のためで、心臓に関しては国外の技術でもどうにもならない。
「……降ろして」
ようやく感覚が戻った瑚夏が言う。
どれだけ回されたのか、実験室まで回って見えて、頭がくらくらした。
瀬戸翼はそっと降ろし、さっきまでの狂喜が嘘みたいに目を冷やす。
切り替えが速い。瑚夏はもう慣れていた。
「残ってる惑霊茸で、あと何粒作れる?」
感心丸には惑霊茸が必要だ。生育条件が苛烈で希少、値も張る。
一輪で数十万から百万円超。三輪で一粒。
「手抜きすれば2粒――」
言い切る前に、瑚夏の拳が瀬戸翼の胸にめり込んだ。
「げほっ……!」
瀬戸翼は胸を押さえて咳き込み、渋々言い直す。
「……一粒」
瑚夏はすぐ親友の四宮薫に電話をかけた。
「惑霊茸の情報、押さえて。出たら値段関係なく全部買って」
感心丸は月1粒、半年で1クール。6粒必要で、途切れたら意味がない。
最大の問題は惑霊茸の確保だ。
『瑚夏ちゃん、もうご飯できてるんだけど? いつ帰るの?』
「今日は無理。明日会って話す」
切る。
瑚夏は瀬戸翼へ言った。
「お疲れさま。欲しいもの、考えたら言って」
褒美のつもりで腕を軽く叩こうとしたが、瀬戸翼は素早く身を引く。
さっきの咳は演技じゃない。拳も手加減されていたとはいえ痛い。
これ以上叩かれたら骨が折れる。
「何でもいい?」
「もちろん」
「世界に一台しかない、あのバイク」
瀬戸翼は食にも服にも興味がない。大好きなのはバイクだけだ。
「……無理」
瑚夏は即答した。
高いとか以前に、コレクターが手放すはずがない。
「ボスならいけます。調べました。先月、結城グループの社長、結城朔夜が落札した。結城朔夜から買えばいい」
「……野菜買うんじゃないんだよ」
「野菜だって相手次第です。結城朔夜? 会えないと思います?」
結城朔夜。結城グループの現トップ。
百年に一人の怪物だと噂されるが、神秘的すぎてネットに写真一枚ない。
そんな相手に、コレクションを売れと言えるわけがない。
「見込み違い。別のにして」
「ボス、俺のこと嫌いになった」
二十代の男が三歳児みたいに拗ねる。
瑚夏はため息ひとつ。
「……で、結城朔夜って結局どんな人なの?」
瀬戸翼は「食いついた」と判断し、得意げに喋り始めた。
「30歳、未婚。イケメンらしい。とにかく謎」
「……」
情報薄い。
――その頃。
結城グループ49階、社長室。
株価ボードに目を落としていた結城朔夜が、何もないのにくしゃみをした。
「はくしゅん……」
同時に、三上が入室し、恭しく報告する。
「結城社長。ホテルの監視カメラを洗いましたが、ご指示の女性は映っていません。痕跡が消されています」
結城朔夜は金縁の眼鏡を外し、眉間を揉んだ。
暗い瞳が細く、危険に歪む。
「ホテルの痕跡まで消せる。十中八九、あの老いぼれの差し金だ」
一拍、冷たく言い切る。
「一週間で連れて来い」
