第6章

結城紗耶は瑚夏の手を引き、屋敷の中へと案内した。

別荘とはいえ、壁一面の大きな窓が並び、空間は広くて明るい。骨董の置物に、掛けられた書画――この家の積み重ねが、あちこちから滲み出ている。

瑚夏は一歩足を踏み入れた瞬間、胸がきゅっとした。

好きだ。ここ。

「瑚夏ちゃん、K市でいちばんおいしいお菓子、ぜんぶ揃えたの。どれが好き?」

結城紗耶は瑚夏の手を引いたままソファに座らせる。

目の前の大きな無垢材のテーブルには、色とりどりの菓子が隙間なく並んでいた。

「お姉さま、これは夢園でいちばん人気なんです。召し上がってみて、気に入るかどうか……」

椎名遥がひとつの菓子を指し、瑚夏へ微笑みかける。

背筋はまっすぐ。所作も表情も完璧に上品。けれど、よく見ると瞳の奥に、冷たい計算が沈んでいた。

瑚夏はすぐに、その言い回しの“意図”を掴む。

食べてみて、気に入るかどうか。

本当に食べ慣れている人なら、口に運ぶ前に好き嫌いくらいわかる。つまり遥は、瑚夏が夢園を食べたことがないと、最初から決めつけている。

夢園はK市随一の高級菓子ブランド。会員制で、材料も製法も徹底しているぶん生産数が少ない。会員枠は限られ、普通の人間がカードを手に入れるのはほぼ不可能だ。

しかも瑚夏が暮らしていたN市は隣とはいえ、K市中心部まで渋滞なしでも2時間近い。食べたことがなくても不自然じゃない。

――だけど。

本当に気遣いができる人なら、相手が食べたことがないかもしれない品を、わざわざ“ブランド名付き”で差し出したりしない。

その上、遥が指したのは外側がさくっと崩れるタイプだ。慣れていない人が素手で取れば、ぽろぽろ落ちて手や服を汚す。品がないように見えるし、何より惨めだ。

普通は小皿に取り分けてから勧める。

椎名家で十数年暮らしていて、その程度の作法を知らないはずがない。

瑚夏は、できれば遥と穏やかにやっていきたかった。

でも――難しそうだ。

「それ、ちょっと甘すぎるの。私は夢園ならチョコレートチーズのほうが好き。甘さがちょうどいいから」

瑚夏の声は羽みたいに軽い。雑談の延長のように、さらりと言う。

遥の瞳に、一瞬だけ疑念と落胆が走った。

渡辺家の資産はせいぜい数億。K市では小金持ち程度のはずだ。夢園を「甘すぎる」と切って捨てる?

夢園の会員カードは、百億単位の資産があっても手に入らないことがあるのに。

それに、チョコレートチーズ。

限定供給で、会員でも予約が遅れれば手に入らない代物だ。

――たまたま誰かの家で一度食べただけで、知ったかぶりしてるんでしょ。

遥はそう結論づけ、笑みをさらに深めた。

「へえ……瑚夏ちゃん、舌が肥えてるんだね」

その瞬間、結城紗耶が嬉しそうにスマホを取り出した。

「瑚夏ちゃん、夢園のチョコレートチーズが好きなの? 今すぐ電話して届けてもらうわ」

そう言いながら、迷いなく発信する。

「……」

限定じゃなかったの?

遥は、結城紗耶の熱量に胸の奥がちくりとした。

椎名家は権勢があっても普段は低調で、コネを軽々しく使わない。それなのに瑚夏のためなら、考える間もなく電話。

自分が映画大学の受験で2点足りなかったとき、頼んでも、両親は一秒も迷わず拒んだのに。

――でも、すぐに心を整える。

今だけ。帰ってきたばかりで、負い目が働いてるだけ。

「ごめんね。じゃあ……お姉さまは、これは好き?」

遥が次に指したのも、同じく崩れやすい菓子だった。

「……」

どうしても恥をかかせたいらしい。

「華清園は全体的に甘いから、あまり好きじゃないの」

瑚夏は遥へ微笑む。

遥の視線が一瞬止まった。

見た目だけで、華清園だとわかるの?

さらに瑚夏はトングを取り、ひとつを小皿へ移す。所作は乱れない。指先も迷わない。

遥の瞳がもう一度止まる。

小皿に分けるまで知ってる?

渡辺家にこんな習慣があるはずがない。どこかで身につけた、“見せるための作法”だろう――遥はそう思い直し、内心で嗤った。

今日のところは、運がよかっただけ。

毎回こうはいかない。

結城紗耶が電話を切った。

瑚夏が小さく菓子を口に運ぶ姿を見つめているうちに、紗耶の胸いっぱいの喜びが溢れ、涙が勝手にこぼれ落ちる。

「瑚夏ちゃん……ママ、もう一生会えないと思ってた……」

その先は声にならず、喉で詰まった。

遥はすぐにティッシュを取り、差し出す。

「ママ。ママがきれいで優しいから、神様がお姉さまを返してくれたんですよ」

結城紗耶はその言葉に慰められたように、ほっとした顔で笑う。

遥は口元をわずかに上げた。

――ほら。一言で、心は掴める。

瑚夏は小皿を置いて、静かに尋ねる。

「ママ。私、小さい頃……どうやっていなくなったの?」

この話が気になって仕方ない。

結城紗耶の表情がすぐに陰る。

「生まれて三日目に……突然いなくなったの。パパが追って、仇の仕業かもしれないって……」

「ママは……ママは……」

嗚咽が混じり、言葉が途切れる。

瑚夏は理解した。

仇なら、生かしておくはずがない。

「それなら、どうして急に探し始めたの?」

結城紗耶は涙を拭いながら、ゆっくり話す。

「半月前にね、パパのところへ匿名の手紙が届いたの。『娘はN市の渡辺家にいる』って。真偽はわからなかったけど、公安にお願いして、こっそりDNA照合をしてもらって……」

「結果が出て、あなたが実の娘だってわかったの」

瑚夏は息を整え、確かめるように言った。

「ママ……私のパパって、椎名遠?」

結城紗耶がはっとして苦笑する。

「そうよ! 私ったら嬉しくて、肝心のことを言い忘れてた。軍区で会議があってね、夜には帰るわ」

やはり――椎名遠。

今のK市軍区総司令官。

曾祖父は国の元勲。

身元を伏せ、渡辺家へ直接迎えに行かなかった理由が腑に落ちる。

高い地位にいるほど、慎重で低調だ。

瑚夏はふと思う。

「ママ。私がこうして生きてるなら、当時私を連れていった人は仇じゃないんじゃない?」

本当に仇なら、命を盾に脅すか、父の命を奪いに来るかだ。

ただ“娘を失う苦しみ”だけ与えて、生かしておくほど甘くない。

椎名遠はかつて保安庁長官も務めた人間だ。

その仇が、そんな慈悲深いはずがない。

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