第7章
結城紗耶は瑚夏の分析を聞くと、愛おしげに娘の肩を抱き寄せた。
「瑚夏ちゃん、ほんと賢いね」
「パパはもう、仇の線は潰してる。でもね、パパも言ってた。いま瑚夏ちゃんがこうして無事に帰ってきた。それだけで、神様がくれた一番の奇跡なんだって。昔の真相は、もうそこまで大事じゃない」
言いながら、結城紗耶はふと我に返る。
「……あ。ねえ瑚夏ちゃん。前からパパのこと、聞いたことあったの?」
自分で口にしてから、しまったと思う。
椎名遠ほどの立場の男の名を知る者は、世間にそう多くない。十九歳の瑚夏が、どうして――。
「人づてに、少し」
瑚夏の瞳に、ほんの一瞬だけ陰りが走った。
祈里おばさん。
自分にとって、あの人は大切だった。数か月前、手紙を一通残して、それきり消息が途絶えた。
だが結城紗耶は、その内側を知らない。父を恋しがって寂しくなったのだと勘違いしてしまう。
彼女は瑚夏を強く抱きしめ、喉を詰まらせた。
「かわいそうな瑚夏ちゃん……もう大丈夫。全部、もう過ぎたこと。これからは毎日、パパに会えるんだから」
ソファの反対側で、椎名遥は、結城紗耶が「瑚夏ちゃん」と呼ぶたびに、目の奥がひっそりと冷えていくのを感じた。
十数年。
結城紗耶は一度も、自分に「ちゃん」をつけなかった。
「遥」と呼ばれるだけでも十分親しいのだと、ずっと思っていたのに。
最上の呼び名は――瑚夏ちゃん。
いつも中心にいるはずの自分が、いまは背景だ。
母と娘が抱き合う景色の外側に、押し出されていく。
椎名遥は、柔らかな笑みを貼りつけたまま、まるで家の主のように言った。
「お姉さま。戻ったばかりで、まだお家のこと分からないですよね。私が案内しましょうか?」
「必要なものがあったら何でも言ってください。お部屋も……もし私の部屋が気に入ったら、すぐ模様替えさせます」
結城紗耶はずっと、椎名瑚夏のために一室を空けていた。
少し古いと感じる内装でも、両親と同じ階。そこは“象徴”だ。
遥は、ずっと欲しかった。
自分から部屋を譲れば大度を見せられる。しかも堂々と二階へ移れる。
瑚夏は薄く笑って、角の立たない調子で断った。
「私の部屋は、ママが用意してくれてるはず。嫌いなわけないよ」
――椎名遥が「譲った」形になれば、周りの目にはこう映る。
本物が帰ってきた瞬間、偽物の部屋を奪った、と。
菓子の件も、わざとだ。
瑚夏は小さく息をついた。
渡辺芽衣との泥沼が終わったと思ったのに。
また、同じ芝居が始まるなんて。
続けて、瑚夏は付け足す。
「それに、私は自分でやりたいの。親力親為っていうか」
――自分のことは自分でやる。余計な手は出さないで。
椎名遥の視線が、わずかに止まった。
物語なら、真の令嬢は戻った瞬間に奪い取る。主権宣言みたいに。
なのに椎名瑚夏は、その型を踏まない?
だが次の瞬間、遥は「理解した」顔を作る。
ママが用意した部屋を拒めば、ママが不機嫌になるかもしれない。
だから怖いのだ、と。
見栄だけじゃない。案外、腹の中は計算高い――。
だとしても、所詮は小手先の小細工。表には出せない。
椎名遥は完璧な言い回しで、場を整えた。
「私ったら、つい世話を焼いちゃって。お姉さまはパパとママの実の娘ですもん。私よりずっとしっかりしてますよね。私が手を出す必要なんてないのに」
情の機微を扱うのが上手い。確かに。
結城紗耶はそんな遥を見て、胸が温かくなる。
立ち上がり、自然に瑚夏の手を取った。まるで昔からそうしてきたみたいに。
「瑚夏ちゃん、行こう。ママが部屋に連れていく」
主屋の裏には、離れが二棟あった。
結城紗耶夫婦は左側。歩きながら、彼女は家のことを話し始める。
「瑚夏ちゃんにはお兄ちゃんが三人いるの。みんな、あっちの棟よ」
「長男はママの会社を見てて、それに直登グループも立ち上げたの。忙しくて、家にいないことも多いわ」
「直登グループって……これ?」
瑚夏はスマホを開き、毎日見ているアプリ画面を見せた。
結城紗耶は得意げに顎を上げる。
「すごいでしょ? お兄ちゃん」
瑚夏は頷いた。
すごい、なんて言葉じゃ足りない。
配信、物販まで抱えた巨大なプラットフォーム。十年足らずでユーザー10億超。これだけで年商は軽く千億単位だ。
「でもね。本当にすごいのは従兄よ。直登グループは、お兄ちゃんと従兄が一緒に作ったの」
結城紗耶の声はさらに弾む。
瑚夏は半分冗談のつもりで言った。
「従兄って……首富とか?」
結城紗耶は、冗談を冗談として流さず、真面目に頷いた。
「ランキングに出たら、世界一よ」
瑚夏は言葉を失う。
つまり――隠れ世界首富。
父は軍区総司令官。
兄は超がつく富豪。
従兄は世界一の金持ち。
極端がすぎる。
「従兄、誰なの?」
結城紗耶は意味ありげに微笑む。
「季って姓の、すごく若い男よ。……当ててみて?」
「……」
季。
「結城朔夜……?」
朝、瀬戸翼が口にしたばかりの名前が、ふと浮かんだ。
結城紗耶の瞳がぱっと輝く。
「朔夜のこと知ってるの?」
「……聞いたことはある」
当たった。
「でもね、朔夜はお舅舅さんの戦友の息子で、結城家とは血縁じゃないのよ」
瑚夏の脳裏に、瀬戸翼が欲しがっていたバイクがよぎる。
あの人は、手放してくれるだろうか。
結城紗耶は少し寂しそうに言った。
「朔夜はね、二十歳にもならないうちから結城グループを背負ったの。いまの規模になったのは、ほとんど朔夜のおかげ」
そしてまた、家族の話に戻る。
「次男は軍区。月に一度くらいしか帰ってこないわ」
「三男はM国で医大。博士課程よ」
商い、軍、医学。
どれも強い。
結城紗耶は一室の扉を開けた。
「瑚夏ちゃん。あなたの部屋、見て」
ウォークインクローゼットだけで100平米近い。
書斎もバスルームも、それぞれ30平米以上。
寝室は必要以上に広くなく、落ち着くサイズ。内装は瑚夏の好みだった。
結城紗耶は声を詰まらせる。
「この部屋……ずっと空けてたの。瑚夏ちゃんが、いつか帰ってくるって信じて……」
涙がにじむ。
「本当に……待てた……」
瑚夏は、誰かを慰めるのが得意じゃない。
それでも胸の奥がきゅっと痛んだ。
血の繋がりって、こんなふうに、変で――だけど、温かい。
瑚夏は振り返り、結城紗耶を抱きしめる。背をそっと撫でて、言葉の代わりに落ち着かせた。
しばらくして、結城紗耶が息を整える。
「瑚夏ちゃん。誤解しないでね。ママが遥を引き取ったのは、あなたの代わりじゃないの。あの子が……可哀想で」
瑚夏は、代わりだなんて思っていなかった。
たとえそうでも、それはそれで仕方がない、とすら思う。
だから自然に尋ねた。
「……何があったの?」
結城紗耶は少しだけ目を伏せ、語り出す。
「私が退院した日ね。遥のお母さんが、遥を抱いて病院の屋上から飛び降りようとしたの。助けたあと、泣きながら言ったわ。娘を三人産んだ、夫は賭博と暴力。こんな家に連れて帰っても、この子は生きられない……だから一緒に死ぬって」
「ママはあなたを失って、心が壊れてた。あの子が地獄に落ちるかもしれないと思ったら……瑚夏ちゃんのために徳を積みたかったの。私が誰かを大事にすれば、きっと、私の子も誰かに大事にされるって」
「院長さんに立ち会ってもらって、遥のお父さんと話して……養子縁組の書類にサインしたの」
確かに、可哀想だ。
瑚夏はもう一つ、静かに聞いた。
「遥は、自分の実家のこと……知ってるの?」
「知らせようとしたことはあるの。でも本人が『知りたくない』って言ったから……それ以上は何も」
それも分かる。
歓迎されない親なら、知らないほうが楽だ。
――その頃。
階下。
椎名遥は自室のスイートへ戻る。ここも100平米近い、ヨーロピアン調。
彼女は真っ先にドレッサーの前に座り、鏡の中の自分を左右から確かめた。
そして最後に、満足そうに微笑む。
これで十分。
上流が好むのは、自分のようなタイプだ。椎名瑚夏は確かに美しい。だが、どこか味が薄い。
そこへ四十代の使用人が、綺麗に盛りつけたフルーツを運んで入ってきた。
「お嬢様、フルーツをお召し上がりになりますか」
椎名遥はソファに沈み、果物をつまみながら尋ねる。
「小林さん。瑚夏のこと、どう思う?」
小林は少し考え、小声で言った。
「遥様と比べるまでもありません」
「……あの子、すごく綺麗じゃない?」
「綺麗なだけで何になります。遥様は才色兼備でいらっしゃいます。ずっと皆さまに褒められて育ったお方ですから」
椎名遥の機嫌が上向くのを見て、小林は続けた。
「奥様は土曜に家宴を開かれます。結城社長も、きっとお見えになりますよ。遥様、また結城社長にお会いできますね」
結城朔夜の名に、椎名遥の瞳が、ふっと柔らかく揺れた。
