第1章

裏庭に立ち、鉢植えのチューリップに水をやっていた。朝の六時。海見町はまだ静かで、私好みの時間だ。

三年前の私が、誰かの愛人だったなんて、誰が思うだろうか。

じょうろを置き、チューリップを見つめる。彼が桜峰ペントハウスにいつも買ってきたのと同じ種類の種類の花だった。あの頃の私には、デザイナーズブランドの服でいっぱいのクローゼットと、限度額のないプラチナのクレジットカードと、四十二階から見下ろす街のスカイラインがあった。

そして、一度も「愛してる」と言ってくれない男がいた。

やめて、美咲。あの生活はもう終わったの。

頭を振り、記憶を無理やり追い払う。あれは過去。今は今だ。私には蘭がいて、小さな本屋があって、自分の人生がある。確かに、華やかさはない。車は中古のボロボロのトヨタだし、服はディスカウントストアのもの、月によっては家賃を払うのがやっとだ。でも、これは本物。安全なのだ。

そして、私が何かを盗み聞きしてしまったせいで逃げ出したこと、自分がただの繋ぎに過ぎなかったと悟ってしまったことを、ここの誰も知らない。

「ママ！」

蘭の声が私の思考を遮った。振り返ると、裏口から蘭が飛び出してくるところだった。カールした髪が弾み、まだ小さなデイジー柄のパジャマを着ている。

「おはよう、蘭」私がしゃがむと、彼女は腕の中に飛び込んできた。

「今日、美鈴さんが公園に連れてってくれる？」灰青色の瞳が期待に満ちて私を見上げる。

その瞳を見るたびに、いつも胸が締め付けられる。四歳になり、日に日に彼に似てきている。でも、ここの誰も彼を知らなくてよかった。

「ええ、そうよ。ママはお店で使うものを市場に買いに行かなきゃいけないの。美鈴さんと楽しんできてね、いい？」

「キャンディー買ってきてくれる？」

私は笑いながら、彼女の耳にカールした髪をかけてあげた。「一個だけね。でも、本当に一個だけよ」

「わかった！」娘は私の頬にキスをすると、お気に入りのおもちゃを探しにでも行くのか、家の中へ駆け戻っていった。

私はゆっくりと立ち上がり、家に併設された小さな本屋を見つめた。手描きの文字で『ページ＆ペタル』と書かれた看板。カフェも兼ねた、私だけの小さな聖域だ。たいしたものではないけれど、自分の手で築き上げた。まあ、自分の手と、彼が私に買ってくれた花屋を売ったお金で、だけれど。

九時になる頃には本屋を開け、淹れたてのコーヒーの香りが店内に満ちていた。暖かい黄色の照明、古本がぎっしり詰まった木製の棚、ばらばらの椅子。

ドアのベルが鳴り、いつもの明るい笑顔で真理が入ってきた。彼女は五十代で、私がここへ越してきてから一番親しくなった地元の友人だ。私の過去を知らない。この町の人々にとって、私は心機一転のために引っ越してきた若いシングルマザーに過ぎない。

「おはよう、美咲！ 蘭を預かる準備はできてるわよ？」真理はコート掛けにハンドバッグを掛けた。

「奥で待ってます。忠告しておきますけど、朝からずっとキャンディーの話をしてますから」

真理は笑った。「あら、そういえば昨日、ちょっとした騒ぎがあったって聞いたわよ。なんでも、すごくハンサムな男性が海見館に引っ越してきたんですって。町中がその話で持ちきりよ」

カウンターを拭いていた私の手が凍りついた。「ビジネスマンが？ この町に？」

「でしょ？ いつも来るのは定年退職した人か夏の観光客くらいなのに。でも、ホテルのサンドラが言うには、何か投資プロジェクトで来てるらしいの。高級そうな黒い車に乗ってて、アウディかＢＭＷか、何か高いやつ」彼女は声を潜めて、内緒話でもするように言った。「それに、ものすごく格好いいらしいのよ。でも、なんだか……悲しそうな感じもするって？ 何か色々考え込んでいるみたい」

心臓が速く鼓動し始めた。

「それは……それはいいことですね。地域経済の助けになるかもしれませんし」私は何気ないふうを装った。

真理は首を傾げ、私をじっと見つめた。「顔色が悪いわよ。大丈夫？ もし休む必要があるなら、私がお店番しててあげるけど」

「いえ、いえ。大丈夫です。昨夜あまり眠れなかっただけなので」私は無理に微笑んだ。「暑くなる前に、蘭を公園に連れて行ってあげてください」

彼女は納得していないようだったが、頷いた。「わかったわ。さあ、蘭ちゃん！ 公園の時間よ！」

二人が去った後、私はカウンターの後ろに立ち、指の関節が白くなるまでその縁を握りしめていた。

彼じゃない。彼のはずがない。考えすぎよ、美咲。

だが、不安は消えなかった。

午後はゆっくりと過ぎていった。本の整理をしたり、客の対応をしたり、コーヒーを淹れたりして、気を紛らわそうとした。

五時に二人が戻ってきた頃には、陽が沈みかけていた。私は店の奥にある小さなリビングで夕食の野菜を切っていたが、蘭の興奮した甲高い声が聞こえた。

「ママ！ ママ！ 今日、すごいことがあったの！」

彼女は小さな竜巻のようにドアから飛び込んできた。興奮で頬を上気させている。真理が後に続き、微笑みながらもどこか不安そうな顔をしていた。

「どうしたの？」私は包丁を置き、彼女の目線に合わせてしゃがんだ。

「すっごく素敵な男の人に会ったの！ ママ、絵本に出てくる王子様みたいに、とってもハンサムだったんだよ！」彼女は私の手をつかみ、つま先でぴょんぴょん跳ねた。「私の風船、ピンクのやつが飛んでっちゃって、すっごく悲しかったんだけど、その人が追いかけてくれたの！ ものすごく速く走ったんだよ！」

口の中が乾いた。「……男の人が、助けてくれたの？」

「うん！ それにね、ママ……」彼女の目は驚きで見開かれた。「私と同じ色の目をしてたの！ 灰青色！ 私が鏡を見たときとまったく同じ！」

私は思ったよりも強く彼女の手を握りしめてしまった。

「大丈夫、ママ？ なんだか変な顔してるよ」

「大丈夫よ」自分の声とは思えない声だった。「その……その人は、名前を言ってた？」

彼女は首を振った。「ううん、でもすごく優しかった。『いつか自分にも娘ができたら、君みたいに可愛い子だといいな』って言ってた！」彼女はまるで輝いているかのようだった。「また会えるかな？」

「蘭、いい子だから聞いて。この町は小さいの。きっと旅行で来てるだけよ。すぐにいなくなっちゃうわ」私は優しく聞こえるように努めた。

真理が咳払いをした。「美咲、言っておくけど、彼が家まで送ろうかって申し出てくれたの。とても丁寧だったわ。でも、知らない人だとあなたが心配すると思って断ったの。彼はがっかりしたみたいだったけど、わかってくれたわ」

「ありがとうございます」私は囁いた。「それが……それが正解でした」

真理が帰った後、私は機械的に夕食を作った。蘭が「ハンサムな王子様」についておしゃべりしているのが、ほとんど耳に入らなかった。パスタをかき混ぜる手が震えていた。

彼のはずがない。ただの偶然よ。灰青色の目をした人なんて、たくさんいる。だろうね……

だが心の奥底で、小さな声が囁いた。もし、そうだったら？

翌朝、胃の中に消えないしこりを抱えて目が覚めた。ほとんど眠れず、寝返りを打ちながら、考えたくもないシナリオを思い描いていた。

「ママ、今日、お花の市場に行ってもいい？」蘭が朝食を食べながら尋ねた。頬にシロップがついている。「ママのお花選び、手伝いたい！」

私はためらった。いつもは彼女を真理さんに預けて一人で行く。だが、昨日の恐怖の後で彼女を近くに置いておきたいと思ったのか、何かがあって「いいわよ」と言ってしまった。

「いいわよ、いい子ね。パンケーキを食べ終えたら行きましょう」

七時に着いた花市場は活気に満ちていた。値段を叫ぶ売り子、新鮮な花の香りが朝のコーヒーと混じり合い、観光客や地元の人々が色とりどりの屋台を見て回っていた。私たちはお気に入りのチューリップ売り場に向かって歩いた。

「見て、ママ！ 紫色のだ！」彼女は私の手を引き、ひときわ鮮やかな陳列の方へ引っ張っていった。

「待って、お嬢さん、ちょっとだけ……」

だが、彼女はすでに手を離し、屋台に向かって駆け出していた。

「蘭！ 待ちなさい！」

私は他の買い物客を避けながら、彼女を追いかけた。そして、彼女を捕まえた。

彼女は、チューリップのそばにしゃがんだ背の高い人物の隣に立っていた。高価そうなダークジャケットを着た男で、私に背を向けていた。

「ハンサムなおじさん！ あなただ！」蘭の嬉しそうな叫び声が、市場の喧騒を切り裂いた。

男が振り返った。

そして、私の世界が完全に止まった。

嘘……

篠原蓮司。私を三年間囲っていた男。私がその子を連れて逃げ出した男。私がずっと隠れてきた男。

彼がここにいた。私の町に。私の娘の手を握って。