第2章 彼女に一度譲ってはだめか?

神崎彩は足を止めたが、振り返らなかった。あの胸糞悪い光景を見たくなかったからだ。

傍らにいた九条莉奈は、彼が神崎彩にばかり構っているのが面白くないらしく、唇を尖らせて甘えた声を出した。「蓮兄様、午後は兄様の代わりに私が会社を代表して片岡グループとの契約に行くって言ったじゃない? プロジェクトに慣れるために早めに来たのに、ちっとも喜んでくれないの?」

言い終わると、彼女は神崎彩に向かって遠慮のない口調で命じた。「神崎秘書、片岡グループのプロジェクト企画書と契約書を持ってきて」

神崎彩の表情が、瞬時に凍りついた。

彼女は九条莉奈を無視し、西園寺蓮を見据えた。その瞳には一欠片の温度もない。「私のプロジェクトを、彼女に渡すつもり?」

彼には分からないのだろうか。このプロジェクトのために、彼女がどれだけの代償を払ったか。

一ヶ月前、西園寺蓮が片岡グループのAIプロジェクトを獲得しようとした際、マーケティング部総出で挑んでも落とせなかった案件だ。

最終的にマーケティング部の人間が彼女に泣きついてきた。

彼女は二つ返事で引き受けた。

契約のため、彼女は片岡グループの人間と胃出血を起こすまで酒を飲んだ。

片岡グループのCEOの母親が入院した際は、不眠不休で十三日間も病院に付き添い、ようやくこのプロジェクトを確定させたのだ。

それを今、他人にくれてやるだと?

彼を諦めることはできても、自らの手で勝ち取った仕事に対しては、やはり未練がある。

西園寺蓮も気まずそうな顔をしていたが、すぐには答えず、九条莉奈に向かって言った。「先に出ていろ」

「どうして私が出て行かなきゃいけないの? 西園寺グループの社長が、たかが秘書一人に説明する必要なんてある?」彼女は不満げに言った。

「出ろ!」

彼の声はさらに低く、冷気を帯びていた。

九条莉奈も少し怖気づいたのか、それ以上は何も言わず、神崎彩を睨みつけてから部屋を出て行った。

オフィスには西園寺蓮と神崎彩の二人だけが残された。

彼はドアを閉め、彼女のそばに歩み寄ると、重々しく口を開いた。「誤解するな、俺と九条莉奈の間には何もない。彼女は九条グループの令嬢だ。兄の九条圭吾とはプロジェクトで提携しているから、最近どうしても付き合いが近くなる」

不倫は不倫だ。提携という隠れ蓑を使って、よくもまあ白々しく言えたものだ。

うまく隠せているとでも思っているのだろうか?

神崎彩は冷ややかに笑い、彼を見上げた。「どうでもいいわ。説明なんて必要ない」

西園寺蓮の少し軟化していた口調が、再び沈んだ。「神崎彩、俺は説明しているんだ。その嫌味な態度は何だ?」

神崎彩は少し沈黙した後、頷いて静かに言った。「分かったわ、その件は一旦置いておく。私が苦労してまとめたプロジェクトを彼女に渡すというのは、どういう意味?」

西園寺蓮は答えた。「彼女に渡すわけじゃない。圭吾が妹に経験を積ませたいと言っていてな。ちょうど片岡グループの件はもう確定事項で、あとはサインするだけだ。だから彼女に行かせて、九条圭吾の顔を立ててやろうと思ったんだ。ボーナスは君のものだ。西園寺グループのためだと思って、今回だけ彼女に譲ってくれないか?」

そう言いながら、彼は彼女の前に立ち、いつものように抱き寄せようとした。

神崎彩は冷ややかに身をかわした。

この一ヶ月、波風立てずに過ごして別れようと思っていた。

だが……。

彼女は頷き、いつもの冷淡な口調に戻った。「いいわよ。今回だけじゃなく、二回でも三回でも、それ以上でも譲ってあげる」

「どういう意味だ?」

「離婚よ。夫も彼女に譲ってあげる」

その方がいい。最後の一ヶ月の茶番劇さえ、もう演じる必要がなくなる。

ところが、西園寺蓮の顔色は一瞬で凍りつき、彼女を睨みつけた。「馬鹿なことを言うな。離婚なんてあり得ない」

断固とした口調。迷いなど微塵もない。

神崎彩はふっと笑った。冷たい笑みだった。

家庭の安らぎも、外の刺激も、両方手放したくないというわけか。

西園寺蓮はその笑い声を聞き、さらに不機嫌になった。

だが彼女がそれ以上離婚の話をしないのを見て、ただ癇癪を起こしているだけだと思い直し、態度を和らげて彼女を宥めようとした。

突然、彼女が言った。「辞職します」

迷いのない一言だった。

西園寺蓮は眉をひそめた。

以前、彼も彼女に仕事を辞めて家庭に入り、専業主婦になるよう勧めたことがあったが、その度に拒否されていた。

彼女は会社と家庭の両立を選び、辞職を頑なに拒んできたのだ。

だから彼はそれ以上言うのをやめていた。

それなのに、このタイミングで辞職だと?

「九条莉奈のせいか?」彼の声に苛立ちが混じった。「神崎彩、君はそんな理不尽な人間じゃないだろう。辞職の話はもうやめろ。この忙しい時期が過ぎたら旅行に連れて行ってやる。シベリアに行きたいと言っていただろう? 数日後に行こう、な?」

神崎彩は彼を見た。その苛立ちを含んだ口調を聞き、笑いが込み上げてきた。男の心変わりとは、こうも簡単なものなのか。

彼女はもう一言も発さず、踵を返してオフィスを出て行った。

午後二時、九条莉奈が一人でプロジェクトの契約書を持って片岡グループへ向かったと聞いた。

本来なら西園寺蓮も同行するはずだったが、急用が入ったため行けなくなったらしい。

神崎彩は気にしなかった。

どうせ西園寺蓮という人間そのものを捨てるのだ。たかがプロジェクト一つ、どうでもいい。

心を鬼にすれば、執着など消える。

彼女は荷物をまとめ、定時を待たずに会社を出た。

当てもなく車を走らせ、街を彷徨う。行き交う人々を眺めながら、行き場のない彼女の心は空っぽだった。

結局、彼女は親友の橘薫のもとへ向かった。

橘薫は弁護士だ。

神崎彩の離婚協議書は、橘薫が作成したものだった。

神崎彩が辞職するつもりだと聞き、橘薫は諸手を挙げて賛成した。「言わせてもらえば、そんなクソみたいな仕事、とっくに辞めるべきだったのよ。あんたは誰? 経営学部の才女、ビジネスの天才・神崎彩でしょ?

あの世界的に有名なサミットで一躍名を馳せ、西園寺蓮のために全企業が争奪していたプロジェクトを勝ち取ったのがあんたじゃなかったら、西園寺グループがたった数年で上場し、業界のトップに立てたと思う?

それなのに今になって梯子を外す気?

あんたの翼をもいで、ビジネスの天才を家に閉じ込めて洗濯や飯炊きをさせるなんて、あいつの頭、どうかしてるとしか思えないわ」

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