第3章 この結婚はまだ続けるべきか
「お母さま、そんな言い方はやめてください、式ちゃんに……」
江口式が伏し目のまま、今にも泣きそうに見えたのだろう。夏川媛がかばうように口を開いた。
だが、お婆さんは気の強い性格だ。江口式が引かないどころか、夏川媛まで味方して歯向かってくるのを見ると、怒りの矛先を彼女にも向けた。
「言うわよ! 私はね、あなたにだって言いたいの。秋実の言う通りよ。そもそも、あんたが『景司を早く結婚させて、私にひ孫を抱かせて』なんて焚きつけたからでしょう? だから私はこの子を嫁に入れるのを認めたのよ。それがどう? 三年経っても子どもはできない、挙げ句に「授かりにくい体」だなんて診断まで出て――最初からこの子を迎えるんじゃなかった! 全部あなたのせいよ!」
「そうよね、しかも寧音姉さんの席を横取りして……」
お婆さんの言葉には情け容赦がない。林田秋実も横で、小声で同調するようにぶつぶつと付け足す。
江口式はそれを聞きながら、華奢な肩をかすかに震わせ、唇をきゅっと結んだまま黙っていた。
言い返せないわけじゃない。ただ、ここで言い争えば争うほど、夏川媛まで巻き添えにされる。それが嫌だった。
夏川媛は目の前の老女と少女を見て眉を寄せ、何か言いかけては呑み込み、最後には重いため息をついた。江口式の手の甲を軽く叩いて、宥めるように言う。
「式ちゃん、お婆さんはね、お医者さまから「授かりにくい」と聞いてから、毎晩眠れなくなってしまって。血圧も上がってるの。だから少し気が立ってるだけよ。気にしないで。体をちゃんと整えれば、赤ちゃんはきっと……」
授からない。
林田景司が「私の子」を望まないかぎり。自分が林田景司の妻であるかぎり、彼はどんな手を使ってでも避妊薬を飲ませ続ける。
江口式の胸に、ふいに恐ろしい考えがよぎった。
――当初、景司は夏川媛に押し切られて仕方なく結婚した。もし離婚に反対されるのを見越して、わざと自分を妊娠できない体にして、離婚へ持ち込もうとしていたのだとしたら……。
「景司は? どうして一緒に帰ってこないの?」
場の空気があまりに悪いと感じたのか、夏川媛はわざと話題を変えた。けれど、それが江口式の胸をさらに窮屈に締めつける。
「忙しいって……帰らないそうです」
江口式は曖昧に答えた。
「何が忙しいのよ」
お婆さんが不満げに眉をひそめる。
「あの子、どれだけ家に帰ってないと思ってるの!」
江口式は黙ったまま。
林田秋実がくすっと笑った。
「お婆さん、この人に聞いても無駄だよ。兄さんが何してるかなんて、わざわざこの人に話すわけないじゃん。専業主婦と兄さんじゃ、そもそも話が合わないんだから」
お婆さんの不満はさらに膨らむ。
「子どもも産めない、そのうえ夫の心ひとつ繋ぎとめられない。いったいどういう妻なのかしらね」
その言葉に、秋実はしてやったりと笑い、甘えた声で続けた。
「お婆さん、怒らないで。こう見えて料理だけは少しはできるんだから。魚のスープ、確かにおいしいし。作らせたら? その間に私が兄さんに電話して、何してるのか聞いてあげる」
「ええ、そうして。今すぐ電話しなさい」
秋実には甘い声を向けるお婆さんも、江口式に視線を戻した瞬間、露骨な嫌悪を滲ませた。
「何を突っ立ってるの。秋実が魚のスープを飲みたいって言ってるでしょう。早く作りなさい。夕食が遅れるじゃないの」
「大丈夫よ、遅れないわ」
夏川媛は江口式の手を取って台所へ向かわせる。
「魚のスープならもう煮てあるの。式ちゃん、味付けだけ見てくれる? どうしてもあなたみたいな味にならないのよ」
そのころには、林田秋実がもう林田景司へ電話をかけていた。
「兄さん、本当に夕飯に帰ってこないの?」
『ああ。寧音が具合を悪くした。今、付き添ってる。別の日に帰る』
スピーカー越しに流れてきた林田景司の穏やかな声が、台所の入口まで来ていた江口式の耳に刺さる。思わず足が止まった。
聞きたくないのに、聞いてしまう。
お婆さんと秋実は「寧音が病気」と聞くや、すぐさま容体を気にしはじめた。
受話器の向こうから、耳あたりのいい寧音の声が返ってくる。
『お婆さん、ご心配なく。ただの軽い風邪です。景司には来なくていいって言ったのに、どうしても付き添うって。景司、お婆さんが待ってるんだから、もう戻って。そんなに心配なら、また明日来てくれればいいわ』
林田景司は二秒ほど沈黙してから、あっさり答えた。
『……そうだな。暖かくして休め。明日また来る』
その言葉を聞いて、江口式はほんのわずかに口元を上げた。胸の奥が痛すぎて、呼吸のリズムまで乱れる。
自分が「帰ってきて」と言っても返るのは、冷たい「忙しい」のひと言だけ。
けれど寧音がひとこと言えば、景司は従う。
――やっぱり、私には資格がない。
そのとき、掌にやさしいぬくもりが触れた。
顔を上げると、夏川媛が心配そうな眼差しを向けている。
江口式は小さく笑って見せ、台所へ足を踏み入れた。
背後では、電話を切った秋実が得意げに言っている。
「ほらね、お婆さん。江口式と兄さんじゃ話が合わないでしょ。寧音姉さんが帰国してから、兄さんが気にかけてる女は寧音姉さんだけなんだよ」
結婚してから江口式は妊活のため家にいて、しょっちゅう本家へ顔を出していた。
家族は皆、彼女の料理を好んだ。だから彼女が台所に立つことも多く、この場所には慣れている。
自分でエプロンを取り、心ここにあらずのまま腰に結ぶ。振り向いた瞬間、ふわりと甘い香りが漂ってきて、江口式は動きを止めた。
焼きたての小さなケーキが皿にのせられ、夏川媛が慈しむような笑顔で差し出してくる。
「魚のスープはまだ煮えてる途中だし、慌てなくていいわ。先にケーキを食べて。たくさん焼いたから、帰るときには箱に詰めて持たせるわね」
「……うん、ありがとう、お母さま」
江口式は受け取り、フォークで少しずつ口に運ぶ。
夏川媛は彼女の沈んだ気配を察したのか、やわらかく言い聞かせる。
「あなたのおじいさまが亡くなったあと、松本爺さんは仕事の面で景司をずいぶん助けてくださったの。今、景司が寧音の面倒を見てるのも、あの方の遺言があるからよ。だから、あまり深く考えないで」
「はい、わかっています」
江口式はかすかな声で答えた。
林田景司が自分に薬を盛らせる男なら――浮気しているかどうかなど、もう大した問題じゃない。
大切なのは、彼の心の奥に、ずっと自分への嫌悪しかなかったという事実。
この三年間、妻としての務めを果たそうとし、できる限りの親密さも与え、食事や生活の世話をし、彼の家族にも尽くしてきた。それでも林田景司の中に、彼女への情は一片たりともなかった。
なら、彼を責めて正しさを争うより先に――この結婚を続けるべきかどうかを考えるべきだ。
夏川媛は、江口式がどこかいつもと違うと感じた。気にしていないようでいて、やはりそうではない。けれど普段の彼女の分別を思えば、それ以上は言わなかった。ただ、お婆さんに「子どもができない」と責められたせいで落ち込んでいるのだろう、と解釈しただけだった。
夏川媛自身も孫を抱きたいと思っている。
お婆さんの言い方はひどいと思う反面、もし本当に江口式が授かれなかったら、と不安でもあった。
そう思うと、江口式を慰め続ける気にもなれず、心の中では林田景司にも少しは家庭へ目を向けてほしいと計算してしまう。
子どもを作るのは、女ひとりの仕事ではないのだから。
林田景司が帰宅したのは、ちょうど食卓につく頃だった。
席に着くなり、お婆さんと秋実はまた寧音の具合を根掘り葉掘り尋ねる。お婆さんは何度も「しっかり面倒を見てやりなさい」と言い聞かせるが、既婚の男が未婚の女性にそこまで付き添う不自然さには、まるで思い至らない。
林田景司は魚のスープを口にしながら、横の江口式を視界の端で一度だけ捉え、お婆さんの言葉に軽く頷いていた。
そのとき、使用人が一杯の薬膳スープを江口式の前に置く。たちまち薬草の匂いが食卓に広がった。
薬の匂いが大嫌いな林田秋実は、鼻をつまんで身を引く。
「江口式、早く飲んでよ。飲んだらすぐ片づけてもらって。臭くてたまんない」
江口式は箸を置き、隣の男を見た。
林田景司はなおも魚のスープを飲んでいる。節のはっきりした指でスプーンを持つ姿は相変わらず品よく整っていて、まるで自分だけ別世界にいるようだった。
江口式の視線に気づかないはずもないのに――一瞥すら寄越さない。
