第5章 この一生あんたは私に勝てない
翌日。江口式は新居で、久しぶりに自然と目が覚めるまで眠った。
カーテンの隙間から差し込む陽射しが頬をあたためる。やわらかく、心地いい。
窓を開け、暴雨に洗われたあとの澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込むと、張り詰めていた神経まで一緒に洗われていくようだった。
甘い粥を炊き、オイスターソースで和えたレタスを添える。嫌な匂いのする薬膳も、吐き気を催す漢方もない。なんて気楽なのだろう。
着替えて外祖父の見舞いに出ようとした、そのときだった。義理の妹――江口馨から電話が入る。
十二年前。母が病で亡くなって一週間も経たないうちに、父の江口信年は新しい女、吉田詩乃を家に連れてきた。しかも、その後ろには自分より三歳下の江口馨までいた。
江口信年は当然のように言い放った。
「吉田おばさんは身体が弱いし、馨ちゃんはまだ小さい。二人とも世話が必要だ。これからここで一緒に暮らす。吉田おばさんを敬って、馨ちゃんの面倒もちゃんと見なさい」
母を失ったばかりの江口式は、ただ怯え、呆然としていた。何が起きているのかを理解するには、あまりにも幼かったのだ。
後になって知った。江口馨は江口信年の実の娘で、吉田詩乃の腹の中にはさらに江口信年の子――男の子までいたのだと。そして江口家でいちばん「居場所がない」のは、自分だということも。
あるいは、神様は罰を与えたのかもしれない。苦労を共にした妻を裏切った江口信年に。人の家庭を壊した吉田詩乃に。
吉田詩乃のその子は生まれなかった。その後も流産を繰り返した。
十二年が過ぎた今も、江口信年には息子がいない。娘は、江口式と江口馨の二人だけ。
「江口式、私ね、婚約するの。帰ってきて、私の婚約者に会う?」
この関係で、わざわざ知らせてくる理由などない。
電話越しの声は浮き立っていて、得意げで――別の意図が透けて見える。江口式は興味も湧かず、断ろうとした。
だが次の言葉が、彼女を凍らせた。
「だって私の婚約者、あなたの幼なじみだもん。大病からやっと回復して、もうすぐ婚約するのに、祝いにも来ないの?」
胸の奥がひゅっと縮む。真っ先に浮かんだ顔がある。けれど、まさか――。
江口式は冷えた声で問う。
「……何を言ってるの?」
「保坂臣よ。知らなかったの? 昨日が退院の日だったの。私を大事に思ってくれてるから、退院した翌日の今日にはもう家に来て、お父さんと結婚の話をしてるの」
江口馨の声は弾んでいく。
「江口式、林田景司と結婚したからって何? あの人、あなたを愛してない。でも昔あなたを愛してた保坂臣は、今は私のもの。あなた、もう何も持ってないのよ」
そして、最後の刃。
「この先も一生、あなたは私に勝てない」
通話は一方的に切れた。
江口式はスマホを握りしめたまま、長いこと現実に戻れなかった。
母が亡くなったあと、ずっとそばにいてくれたのは、幼いころから一緒に育った保坂臣だった。慰めて、何度も何度も言ってくれた。
「式ちゃん、俺が君を嫁にもらう。この世でいちばん純粋な愛をあげる。絶対に裏切らない」
だがその後、二人で旅行に出た先で山崩れに遭った。
保坂臣は自分の体で江口式を守り、重傷を負って植物状態になった。医師からは、もう目を覚ますことはないと言われた。
それから――保坂臣の両親を助けるためにも、そして母が苦労して築いた会社を守るためにも。江口式は悩み抜いた末、林田景司との政略結婚を選ぶしかなかった。
そのとき、彼女と保坂臣の縁は途切れた。
それでも、二人の間にあったものまで消えたわけではない。なのに。
目を覚ました彼が、どうして自分を長年いじめ続け、さんざん苦しめてきた江口馨と一緒になるのか。
どう考えても理解できなかった。
結局、江口式は江口家へ向かった。
この三年、誤解を避けるためにも、彼女は保坂臣の見舞いへほとんど行かなかった。行くときも彼の両親とは顔を合わせないようにしていたから、自然と連絡も途絶えていた。
まさか、保坂臣がいつ目覚めたのか、まして退院までしていたのか――自分だけが何ひとつ知らなかったなんて。
どうして目覚めたあと、彼は自分に何の連絡もくれなかったのだろう。
恋人には戻れなくても、せめて友人ではいられたはずなのに。
玄関の暗証番号を押す。
エラー表示。
長く帰っていなかったせいで、また番号が変えられていたのだと気づく。吉田詩乃と江口馨は、よく家の番号を変えた。しかも決まって、江口式にだけは教えない。
昔もそうだった。
ある夕方、学校から帰ると番号が変わっていて、鍵も持っていなかった江口式は家の外に締め出された。ランドセルを背負ったまま固定電話に何度もかけたが、誰も出ない。
雨で全身ずぶ濡れになり、最後に頼ったのは保坂臣だった。迎えに来た彼は、保坂家へ連れて帰ってくれた。
それでも吉田詩乃は、「馨ちゃんが熱を出してて、私も使用人も看病で手いっぱいだったの。電話なんて聞こえなかったわ」と、形だけの「ごめんなさい」を口にしただけ。
江口信年は二人を責めるどころか、江口式のほうを叱った。方家に「継母にいじめられている」と誤解され、江口家の面子を潰した――そんな理屈で。
インターホン越しに使用人が出てくる。
「……どうして戻られたんですか?」
そこには、まるで彼女がここにいてはいけない人間だと言わんばかりの顔があった。
母が生きていた頃からいた使用人たちは、とっくに吉田詩乃が理由をつけて入れ替えている。今いる者たちは、吉田詩乃母娘の言うことしか聞かず、江口式に敬意など払わなかった。
江口式は答えず、そのまま中へ入る。
次の瞬間、聞き慣れた声が耳に届き、心臓が勝手に強く打った。
「おばさん、父さんと母さんから全部聞きました。俺が意識のない間、馨ちゃんはずっと俺の世話をしてくれて、両親のところにも何度も顔を出してくれた。馨ちゃんの気持ちはよくわかってます。だから、俺は彼女を裏切りません」
「彼女と結婚して、これからの人生をかけて報います」
十指を絡めた二人の手。
その光景に、江口式の足が止まった。
ちょうどそのとき、保坂臣と江口馨が振り向く。まるで、逃げ道を塞ぐように。
聞き間違いでも、見間違いでもなかった。
かつて「誰よりも愛してる」と言ってくれたその人が、今、彼女が何より嫌う相手を娶ると言っている。
三年が過ぎても、保坂臣の顔立ちは大きく変わっていない。以前見舞いに行ったときのような痩せ衰えもない。
つまり――彼は、ずっと前に目を覚ましていたのだ。今の姿まで回復できるほどに。
それなのに、どうして誰も彼女に知らせなかったのか。
「式ちゃん、帰ってきたのね」
吉田詩乃が白々しい笑みで迎える。
「ちょうどよかったわ。今日は臣くんとあなたの妹の婚約話を進める大事な日なの。あなたも来てくれて、家族そろって本当によかった」
江口馨は保坂臣の腕にしがみついたまま立ち上がり、笑って言った。
「お姉ちゃん、私と臣くんが付き合うことになっても、文句ないよね?」
保坂臣は江口式をちらりと見ただけで、すぐに視線を江口馨へ落とす。微笑みながらその頬に手を添えた。
「何を馬鹿なこと言ってる。俺たちが一緒になるのに、彼女が何を言う必要がある」
そうだ。
二人の縁は、もう終わっている。文句を言う資格などない。
ここへ来るまで、胸の中にはいくつもの問いが渦巻いていた。なのに、いざ彼を前にすると、ひとことも出てこない。
気づいてしまったからだ。もう彼に声をかける立場が、自分には何ひとつ残っていないことを。友人としての立場ですら。
なにしろ保坂臣は、今に至るまで一度も、まともに彼女を見ようとしないのだから。
「お姉ちゃん、私たちのこと、祝福してくれるよね?」
江口馨ははにかむふりをして保坂臣の手を軽く払う仕草をし、また江口式を見る。
その瞬間、保坂臣がようやくこちらに視線を寄越した。だがその目は、見知らぬ他人を見るように冷たい。
「……ああ」
江口式は頷いた。続く言葉は、保坂臣の目をまっすぐ見つめたまま、彼へ向けて告げる。
「二人が本当に愛し合ってるなら、もちろん祝福する」
視線がぶつかる。
保坂臣の眉が、ほんのわずかに寄った。
江口馨は彼の腕をさらに強く抱き、わざと意識を自分へ向けさせる。甘えるように、その肩へ頭をもたせかけた。
「だって最初に臣くんを捨てて、林田景司と結婚したのはお姉ちゃんだもん。今になって臣くんが誰を選ぼうと、臣くんの自由でしょ?」
たった一言で、江口式は「愛する人を裏切った最低の女」に仕立て上げられた。
