第1章
「――ご主人が今、どこにいるか知りたい?」
「御蘭亭へいらして。あなたが見たいもの、見せてあげる」
受話器の向こうは、若い女の声だった。どこか、耳に残っている。
香椎早希は眉をひそめ、通話の切れたスマホの画面を見つめたまま、胸の奥にざらりとした不安が広がっていくのを感じた。
今日は、雲雀京介と結婚して三周年の記念日。――そして、自分が妊娠していると分かった日でもある。
本当なら、胸いっぱいの喜びを抱えたまま彼の帰りを待っていた。玄関の音がした瞬間に、真っ先に伝えるつもりだったのに。
結婚三年。ようやく、ふたりの子どもができたのだから。
けれど待っていたのは、雲雀京介からの申し訳なさそうな電話だった。
「会社で急に海外絡みの会議が入ってさ。今夜、遅くなる」
たった一本の電話――。
香椎早希は目の底の冷たさを押し殺し、まだ膨らみもしない腹をそっと撫でた。
雲雀京介が遅くなるのは、これが初めてじゃない。
三か月前から、彼は理由を変えては家に帰らなくなった。女の直感が、ずっと告げていた。おかしい、と。
それでも早希は信じた。
結婚三年、誰もが知っている。雲雀京介は妻を溺愛している、と。
早希が甘いものを食べたいと言えば、南区から北区まで車を飛ばし、深夜に焼きたてのパンを買ってくる。
早希を掌の上に載せるみたいに扱い、面倒ごとから遠ざけてくれた。
そんな雲雀京介が、浮気なんてするはずがない。
――そう思っていた。あの場所へ行くまでは。
御蘭亭。H市でも指折りの会員制プライベートクラブ。
最上階の豪奢な個室には、酒と金の匂いが濃く漂っていた。
香椎早希は扉の外に立ち、内側から漏れてくる調子外れの笑い声を聞いた。
「京介兄さん、今回の小さな芸能人、相当かわいがってるじゃないっすか。デカい資源まで突っ込んだって聞きましたよ。三か月、付き合いまくったでしょ?」
雲雀京介の低い声が、気怠げな笑いを帯びて返る。
「まあな。――早希の親友だから」
「へえ、親友っすか。義姉さんの代わりに、京介兄さんの相手までしてくれて」
「京介兄さん、両取りの幸せじゃん。普通じゃ味わえねえ!」
個室の中に、ねっとりした笑いが弾けた。
香椎早希は指を握りしめたまま、整った瞳を見開き、動けなくなった。
芸能人。親友。
それに当てはまるのは――大学からの親友、竹内結菜しかいない。
つい二日前も、頬を上気させた結菜が来て、愚痴をこぼしていた。
「新しい彼氏がさ、ほんと粘着質で。首も胸元も痕だらけ。人前出られないんだけど」
そのとき早希は、何て言った?
――粘着質なのは愛情表現だよ、って。
自分と京介が熱に浮かされていた頃、身体じゅうが彼の痕で埋まっていたから。
親友がいい相手を見つけたのだと喜び、結菜の目に一瞬よぎった得意と軽蔑を、見落としていた。
あの痕は。
香椎早希がいちばん愛した夫が、彼女につけたものだった。
なんて――滑稽だろう。
「もうすぐ来るからな。お前ら、これ以上デカい声出したら殺すぞ?」
聞き慣れた雲雀京介の笑い声。早希は掌に爪を立て、息を殺して聞き続けた。
「ここでどんだけ騒いでも平気っすよ。義姉さんの耳に入らなきゃ!」
皆分かっているのだ。雲雀京介がどれほど香椎早希を大事にしているか。
そして外の女なんて、男にとってはつまみ食いみたいなものだと。親友? 遊びだ、遊び。
ドアの隙間から覗くと、主座に座る男がグラスの赤ワインを一口含み、眉目をゆるくほどいていた。
かつて香椎早希に永遠を誓った男。
「それな。口は固くしろよ」
「うちの奥さんは賢いから、ずっと俺を信じてる。余計なことは聞かない」
脚を組み、気ままな姿勢。
彼にとって女は二種類。香椎早希と、それ以外の遊び相手。
早希に知られさえしなければ、他の女は刺激と欲の処理に使うだけ。
「でも京介兄さん、遊ぶのはいいけど、子ども作っちゃダメっすよ」誰かが半分冗談めかして言った。「後がめんどい」
雲雀京介は低く笑った。
「大丈夫。そこは分かってる」
「それに……」声が少し落ちる。上から目線の寛容さが滲む。
「早希は身体が弱い。どうしても子ども欲しけりゃ、外で誰かに産ませてもいいだろ」
その瞬間、香椎早希は雷に打たれたように硬直した。
たしかに体は弱い。
だが雲雀京介が子ども好きだから、早希はどれだけ努力した?
生活を整え、妊活にいい食事を続け、負担がかかると分かっていても注射まで打った。
「俺たちの愛で生まれる子は、世界一いい子だ」
そう言った彼の言葉が欲しくて。
なのに結局は――外で産ませればいい、だなんて。
香椎早希は口角を引き上げようとした。
笑えない。泣けない。
目の奥は乾ききって、痛みで全身が震える。
どうやって家まで戻ったのか、覚えていない。
闇の中に座り込み、膝を抱え、顔を埋めた。
ふたりがいつからそうなったのか。考えるのも怖い。
結菜が仕事で行き詰まり、京介に「助けて」と頼んだとき? それとももっと前から?
頭がじんじんと膨らむ。
ドアが開いた。
顔を上げると、雲雀京介が帰ってきた。
「早希、電気つけてないの?」
彼は慎重にベッドサイドのランプを点ける。
早希は目を細め、光に慣れようとした。
そのとき見えた。
雲雀京介の首元に薄い痕。
そして、服に残る女物の香水の匂い。
最初から最後まで――自分が信じすぎたのだ。夫も、親友も。
だから気づけなかった。
ふたりは隠す気すらなくなっていた。
早希が黙っているのを、京介は記念日で拗ねたのだと思ったらしい。柔らかく宥める。
「俺が悪い。会議なんて早く断って、ちゃんと帰るべきだった。怒ってる? もう怒らないで」
情に厚い夫を装う姿が、急につまらなく見えた。
流れない涙みたいに。
早希は首を振り、いつものように唇を尖らせた。
「次はちゃんと覚えててね。今回は許してあげる!」
可愛らしい仕草はいつも通り。雲雀京介は違和感に気づかず、ほっと息をついた。
「分かった。じゃあ俺、先にシャワー浴びてくる。あとで一緒にいよう」
頭をくしゃりと撫で、浴室へ。
扉が閉まった瞬間、香椎早希の目がすっと冷えた。
スマホを取り出し、久しくかけていなかった番号を呼び出す。
「……もしもし。流産手術の記録、一本。あと――交通事故も」
浴室から水音が響く。
香椎早希の声は、風にほどけるほど軽い。
「裏切りを選んだなら……私も、あなたたちを引きずり落とす」
雲雀京介は早希を大切に囲っていた。家事もさせず、仕事もさせず。
だから皆忘れている。
雲雀京介が今の立場を手にするまでが、順風満帆だったわけじゃないことを。
五年、香椎早希は彼の隣で支え続けた。人脈を育て、心を掴み、権力を奪い取る――その一歩一歩に、彼女がいた。
けれど京介が甘やかしすぎたせいで、周囲が覚えているのは「大切にされる雲雀奥さん」だけ。
香椎早希という女そのものではない。
浴室の水音が止まらないまま、スマホがぶるりと震えた。
さっきの番号から、メッセージ。
【香椎早希。雲雀京介が今夜は結婚記念日だって言うから、私の上でいつもより本気だった。赤ちゃん欲しいって。ねえ、私……もう妊娠してると思う?】
