第2章
香椎早希はスマホを握りしめ、指先にぐっと力を込めた。
ほんとうに――待てないらしい。
浴室の水音が止む。
香椎早希は素早く画面を落とし、いつもの柔らかな表情へ戻した。
顔を上げると、雲雀京介が腰にバスタオルだけを巻き、濡れた髪のまま出てくる。
前なら、早希は「また乾かしてないの?」と睨んでタオルを取りに行き、ぶつぶつ言いながら拭いてやっただろう。
でも今は――汚い。
胸に浮かぶのは、それだけだった。
「ぼーっとしてどうした?」
ベッドの端が沈み、雲雀京介が隣に腰を下ろす。自然な動きで腕を伸ばし、肩を抱こうとする。
女物の香水は洗い流されたのか、鼻先に届くのはいつもの雪松の匂い。
それでも胃の奥が、ひっくり返りそうだった。
香椎早希は込み上げる吐き気を押し込み、そっと自分の小腹に手を当てる。
本当は今日、雲雀京介にサプライズをするつもりだった。
ここに、小さな命がいる。私たちの子だよ、と。
まさか先にサプライズを食らうのが自分だなんて。
――この子は。
目を伏せる。裏切りを知ってしまったのに、胸が詰まって痛い。
八年一緒にいた。心臓から腐った肉を抉り取るようなものだ。痛くないはずがない。
でも、私を痛めつけるなら。
彼らだけが無事でいられると思わないで。
「どうして黙ってる?」
雲雀京介はいつも通り、甘えるように早希の首筋へ頬を寄せた。
湿ったくすぐったさが肌を這い、意識が無理やり引き戻される。
「考えてたの」香椎早希は囁いた。目は氷のように冷たいまま。
「この三か月、本当に忙しかったのかなって」
雲雀京介の身体が、ほんのわずか硬くなる。だがすぐに力を抜き、額にキスを落とした。
「海外の案件を進めててね。少し立て込んだ。終わったら旅行に行こう。いい?」
あまりに自然で、まだ「命がけで妻を愛している男」に見える。
香椎早希があの会話を聞いていなければ、あの部屋を覗いていなければ、信じてしまったかもしれない。全部、夢だったのだと。
「いいよ」香椎早希は微笑んだ。昔のままの柔らかい目元を作る。
「どこに行く?」
雲雀京介はさらに抱き寄せ、溺愛の声色で言う。
「最近退屈してた? 落ち着いたらモルディブ行こう。ずっと行きたがってただろ」
行きたかった。
でも今は、彼と行きたくない。
香椎早希は独占欲が強い。
自分のものが誰かに触れたなら、どれだけ好きでも、もう持たない。
人も同じ。
「約束ね。騙したら許さない」
目を閉じ、彼の胸に顔を押し当てる。こもった声。
「俺がいつ騙した?」
雲雀京介はくすりと笑い、指先で長い髪を梳く。
香椎早希は何も言わなかった。
ただ、心臓の音を聞いていた。
一つ、また一つ。安定して、力強い。
三年間、彼が約束を口にするたび、思わず信じたくなるあの鼓動。
この心は、もう自分のものじゃない。そんな気がしていた。
――抱きしめた温もりに、雲雀京介の胸もふっと柔らかくなる。
最近、早希を放っておきすぎた。
竹内結菜は奔放で、早希より新鮮で、気づけば時間を割いてしまう。
だが雲雀京介は分かっている。愛しているのは香椎早希だけだ。
欲の処理に使う女のために、早希を傷つけるつもりはない。
髪を撫でながら、低く言う。
「最近忙しいしさ。退屈なら、君の親友を呼べばいい」
「買い物も遊びも、俺のカードでいい。金は気にするな」
香椎早希は、胸の内で笑いそうになった。
竹内結菜を呼んで、何をさせる?
夫を奪った自慢話でも聞かせるの?
結婚記念日に、どれだけ自分の身体に痕を残されたか、誇らしげに語らせる?
喉元まで上がった吐き気を飲み込み、口角を少し上げる。
「いいよ」
「ちょうど来月、お父さまのお誕生日でしょう。プレゼントと、当日着るドレスも選ばなきゃ」
さらりと言って、少しも不自然さを見せない。
雲雀京介が雲雀グループに入る前は、ただの隠し子で、父の眼中にすらなかった。
上の兄たちに勝てたのは、早希が彼と社交の場に出入りし、言葉と発想で投資家や名家の子息を繋いだからだ。
平凡だった雲雀京介が、父の目に映るようになった。
――今さら。
香椎早希は彼を見上げる。
「そのとき、あなたにサプライズもあるの」
灯りの下、彼女の小さな顔が光を受け、眩むほど綺麗で。
雲雀京介の胸が大きく揺れた。
思い出す。早希が隣で応酬していた頃の眩しさを。
今の早希は、自分のものだ。
その事実が心を満たし、竹内結菜の新鮮さを一時的に押し流す。
「早希、ほんと……いい女だ」
魅入られたように身を屈め、キスをしようとする。
香椎早希は反射的に顔を逸らした。
唇が空を切り、雲雀京介の目に疑問が浮かぶ。
「早く寝よう?」香椎早希は睫毛を伏せ、冷たさを隠す。
「最近忙しいんでしょう。私、心配なの」
――さっきまで別の女に触れていた唇で、私に触れないで。汚い。
雲雀京介は疑わなかった。確かに遅い。
灯りが消え、寝室は闇に沈む。
香椎早希は背を向けたまま、目を開けて眠れない。
心狠になれ、と自分に言い聞かせても、眠れないものは眠れない。
同じ寝床で、別の夢を見る。
そんな言葉は永遠に自分たちとは無縁だと思っていたのに、たった三年で現実になった。
目尻から落ちた涙が、枕に吸い込まれる。
そのまま、うとうとと沈み――。
深夜、低い男の声が聞こえた。
「俺、言ったよな。家に帰ってる時に電話するなって」
「竹内結菜、自分の立場をわきまえろ」
香椎早希は必死に目を開ける。隣が空だ。
声の方を見ると、ベランダに雲雀京介がいた。スマホを手に、手すりにもたれている。
月明かりに照らされた横顔は硬く、冷たい。
「俺の心にいるのは香椎早希だけだ。俺の奥さんも、雲雀奥さんも、彼女だけ。これからもずっと」
「資源はやった。数日は早希の買い物に付き合え。余計なことをするなよ。俺が知ったら、お前の今のもの全部、取り上げられる」
脅しのような声。
香椎早希の胸に、喜びは湧かなかった。
電話の向こうから、細い泣き声が漏れる。
「京介兄さん……あなた、私のベッドから出るのも名残惜しそうだったのに。私にしか感じないって言ったのに……」
「この三か月の半分は私があなたに付き添ってた。ほんとに……私に、情は一つもないの?」
