第4章
場内が、すっと静まり返った。販売員たちは一斉に視線を落とし、誰ひとり顔を上げようとしない。
――これで、私を煽るつもり?
今日が終わったら、香椎早希と雲雀京介が離婚危機だとか、そんな噂が四方八方に飛び散るに決まっている。
サイズの取り違えなんて、騒ぐほどのことでもない。
けれど、相手が「親友」なら話は別だ。
香椎早希は、笑いものになる。
外には記者が張っているかもしれない。早希が取り乱すのを待って、曖昧な言葉を添えて記事にし、竹内結菜の名前を売る。
たしかに、一石二鳥。
香椎早希は遠慮なく竹内結菜を値踏みし、スマホを取り出して雲雀京介に電話をかけた。
泥をかぶせたのが彼なら、拭うのも彼だ。
コールは一度で繋がる。早希はスピーカーにした。
「どうした、早希? ドレスの試着、気に入った? 好きなの、何着でも取っとけよ。旦那さん、買えるから」
笑みを含んだ声。受話器越しでも甘やかしが滲む。
竹内結菜は、早希が直で雲雀京介に当てるとは思わなかったのだろう。顔色が一瞬で固まった。
次の瞬間、香椎早希が言う。
「竹内結菜がね。ブランド『T』に送った雲雀奥さんのサイズ、結菜のだって」
回り道はしない。逃げ道も、与えない。
挑発したいならすればいい。
その前に、雲雀京介が許すかどうか――見せてもらうだけ。
雲雀グループの株主と投資家が、夫婦不仲や不倫疑惑で株価と提携が揺れるのを歓迎すると思う?
そんな余裕、彼にあるはずがない。
電話の向こうで、雲雀京介の穏やかな声音が凍りついた。
「早希、秘書のミスだろ。雲雀奥さんはお前だ。どうして役者崩れが雲雀奥さんになるんだよ」
言い切る言葉は、ほとんど残酷だった。
役者崩れ――竹内結菜を舞台に上げない宣告。
竹内結菜は殴られたみたいに血の気を失い、手足が冷えたまま立ち尽くす。
周囲の視線が、嘲笑に見えた。
香椎早希は腕を組み、眉を上げる。
「……そう?」
その一言で、雲雀京介の声がさらに険しくなる。
「竹内結菜。何をふざけたこと言ってる」
怒声が飛んだ。けれど、早希に向ける声は途端に柔らかくなる。
「早希、怒らないで。頭の悪い秘書はすぐクビにする」
「前に竹内結菜がドレス借りたいって言ってきただろ。あれ、秘書に任せたんだ。たぶんそのとき混ざった」
苦しい言い訳。滑稽。
しかも――口だけ?
香椎早希は睫毛を伏せたまま、答えなかった。
「早希、サイズが他人のなら……汚れたも同じだ。要らない」
「俺の名義で服飾会社をひとつ持ってる。そこ、お前の名義にしてやる。好きに作れ」
――それでいい。
香椎早希の表情が、ほんの少し緩む。見えないのを承知で、わざと上品に頷いた。
「うん。もちろん、旦那さんを信じてる」
「結菜は私の大事な親友だもん」
淡々と告げた途端、雲雀京介は返事をできず、通話はぶつりと切れた。
暗くなった画面を見つめ、雲雀京介の顔はひどく陰った。
「誰がやった。切れ。二度と見たくない」
目の前の総合秘書・青木和安に、低い警告が落ちる。
「お前も覚えておけ。雲雀奥さんは誰か。次はない」
青木和安は額に汗をにじませ、震えながら頷いた。
「承知しました、雲雀社長」
……
雲雀京介と竹内結菜の重たい空気とは裏腹に、香椎早希の気分は悪くなかった。
あの服飾会社は雲雀京介の個人名義で、規模も悪くないのを知っている。
「早希……私が悪かった。誤解させちゃって……私、私……」
竹内結菜は涙を溜め、今にも崩れそうな顔を作る。
香椎早希をちらりと見て、顔を覆い、そのまま駆け出していった。
あの背中。どこまでも可哀想に見えるよう、計算されている。
――さすが役者。
香椎早希は肩をすくめ、気にも留めなかった。
怒るどころか、感謝したいくらいだ。竹内結菜がいなければ、会社ひとつ増えなかったのだから。
口元が、自然と上がる。
ドレスだって、別に要らないわけじゃない。雲雀京介の金だし、ドレスに罪はない。
「測り直してください。私のサイズで」
「支払いは雲雀社長の口座で」
夕方。香椎早希は買い物を満喫して帰宅した。
靴を脱いだ瞬間、室内の照明がぱっと消える。
闇の中から雲雀京介が花束とケーキを抱えて現れた。
蝋燭の揺れる灯りが、整った顔立ちを際立たせる。女が溺れるのも分かる。
――でも、私だけのものじゃないなら要らない。
「早希。昨日は忙しくて帰れなかった。これ、三周年のプレゼント。許して?」
ケーキには、三周年おめでとうと書かれている。
香椎早希は唇を尖らせ、拗ねたふりで睨んだ。
「ふん。雲雀社長のプレゼント、ケーキだけ?」
その顔に、雲雀京介は弱い。胸がきゅっと緩むのが分かるのだろう。
「まだある」
雲雀京介は机から書類を一枚取り出した。会社の株式譲渡契約。
香椎早希は満足して、自分の名前をさらりと書いた。
雲雀京介が何を好むかは知っている。昔は心から。今は――狙いがある。
「早希、願いごと」
雲雀京介が優しく促す。
演技でいい。くれるものが多いなら、合わせてやる。
香椎早希は蝋燭に向かって目を閉じた。
柔らかな火がゆらゆら揺れ、雲雀京介は見惚れたように息を止める。
だが、ポケットのスマホがぶるぶると震えた。
そっと覗く。――竹内結菜。
雲雀京介は眉をひそめ、願いごとに集中する香椎早希を見て、通話を切った。
次の瞬間、短信が跳ねる。
【京介兄さん、わざとじゃないの。怒らないで。私、妊娠した。赤ちゃんのために、一度会って】
竹内結菜が――妊娠?
