第4章

 私は洗面所で長い時間を過ごしていた。

 行き交う女性客たちが、鼻を押さえながら私を避けていく。

 その露骨な嫌悪の視線も、今の私にはどうでもよかった。

 重い足を引きずるようにして、そこを後にした。

 宴会場は相変わらず煌びやかな光に満ち、高級な香水と芳醇なワインの香りが漂っている。けれど私の鼻腔を突くのは、自身の内側から湧き上がるような腐敗臭だけだった。

 すぐ先で、平野信が給仕の盆からグラスを取り上げ、気怠げに傾けている。

 その傍らには三角静留。彼女は勝ち誇った孔雀のように、その愛らしい顔を上げ、周囲の羨望を全身で浴びていた。

 私の姿を認めた瞬間、信の眉間に深い皺が刻まれた。

「吐き終わったか?」

 氷のような視線が私を射抜く。その声には隠しようのない嫌悪が滲んでいた。

「済んだなら控室に失せろ。目障りだ。さっきの醜態で、三角家と平野家の顔にどれだけ泥を塗れば気が済むんだ」

 私は足を止め、三メートルほどの距離を隔てて、かつて愛したその男を静かに見つめた。

 胃はまだ痙攣しているというのに、心は奇妙なほど凪いでいた。

 それは、死灰のような静寂。

「平野信」

 口にした声は大きくなかったが、喧噪の中でも異常なほど明瞭に響いた。

「離婚しましょう」

 あたりの会話が、まるで一時停止ボタンを押されたかのように消失する。

 すべての視線が突き刺さる。そこにあるのは、見世物を期待する下卑た好奇心だ。

 信は一瞬呆気にとられたが、すぐに鼻で笑った。

 手の中のグラスを揺らし、聞き分けのないピエロを見るような蔑みの目を向ける。

「三角惠子、また何の真似だ?」

 彼はあざけるようにワインを一口含んだ。

「さっきのキスのせいか? それとも俺が静留を庇ったからか?」

 彼はゆっくりと私に歩み寄り、臃腫した私の体を冷ややかに見下ろした。眼底には侮蔑の色が濃い。

「『押して駄目なら引いてみろ』ってやつか? 何度同じ手を使う気だ? 飽きないね。離婚をちらつかせれば、俺が振り向くとでも思ってるのか?」

——

「本気よ」

 顔を上げ、彼の瞳を真っ直ぐに見据える。

 信の表情が曇った。

 彼にとって、私には条件を出す資格などないのだ。

「本気、だと?」

 彼は冷たく笑った。

「いいだろう。そこまで演じたいなら付き合ってやる」

 彼は私の足元の、磨き上げられた大理石の床を指さした。その声は凍てつくようで、残酷な愉悦を含んでいた。

「離婚したいんだな? いいぜ。今ここで跪いて俺に頼め。土下座でもしてみせれば、認めてやるよ」

 人垣から低い驚きの声と忍び笑いが漏れる。

 三角家の長女は愛されていないが、骨だけは誰よりも硬い――それは周知の事実だ。

 かつて妹を陥れたという濡れ衣を着せられた時も、頑として認めず、雪の中で丸一日立ち尽くしたことさえある。

 信は、私が跪くはずがないと高を括っているのだ。

 ただ私を辱め、嫉妬と怒りで顔を赤らめさせ、最終的には惨めに言葉を飲み込んで、部屋の隅で大人しく「透明な平野夫人」に戻る様を見たいだけ。

 三角静留が信の腕に絡みつき、驚いたふりで口元を押さえた。

「お姉ちゃん、やめてよ。お義兄さんはただ怒ってるだけで……本当に跪くわけないじゃない。こんなに見られてるのに」

 その瞳の奥には悪毒な光が明滅している。私が泥沼に踏み躙られるのを期待する興奮の色だ。

 私は平野信の、整ってはいるが冷酷な顔を見つめた。

 これが、私の夫。

 離婚しなければ、逃げ出さなければ、私を待っているのは手術台の上で骨髄を吸い尽くされ、ゴミのように捨てられる未来だ。

 命と引き換えなら。家畜のような扱いから逃れられるなら。

 プライドが何だというの?

 膝をつくくらい、何だというの?

——

「わかったわ」

 短く応じる。

 信の顔に張り付いた冷笑が消える間もなく、次の瞬間、彼の瞳が激しく収縮した。

 躊躇いなど、微塵もない。

 ドンッ、と鈍い音が響く。

 私は硬い大理石の上に、両膝を強く打ち付けた。

 膝の骨が床を叩く音が、死に絶えたような宴会場に生々しく木霊する。

 場内は瞬時に静まり返った。

 嘲笑を浮かべていた客たちの顔が凍りつく。

 口元を覆っていた三角静留の手が空中で止まる。

 そして平野信は、まるで雷に打たれたかのように硬直していた。

 足元に跪く私を凝視するその顔――常に傲慢と支配に満ちていた表情に、初めて亀裂が走る。そこには微かな、しかし確かな狼狽があった。

 私は頭を垂れ、床についた自分の手を見つめた。

 無理な増量と薬物投与で、醜く浮腫んだ両手。

 けれど心は、かつてないほど軽やかだった。

「平野様」

 顔を上げ、強張った彼の顔を静かに見上げる。

「お願いします。私と離婚してください」

——

 平野信の胸が激しく上下した。

 一瞬の狼狽は、すぐさま激しい羞恥と怒りに塗り替えられる。

 かつては自分だけを見つめ、追い払っても離れようとしなかった三角惠子が、まさか自分から離れるために、衆人環視の中で土下座までするとは。

 そうね。

 男とは、どこまでも自尊心の高い生き物だ。

 こうして公衆の面前で顔に泥を塗られて、喜ぶはずがない。

 まるで、私が駆け引きをしていると決めつけていたのに、本当に命綱を断ち切られたような気分でしょう。

「そうか……上等だ!」

 信は歯ぎしりし、額に青筋を浮かべた。

「三角惠子、後悔するなよ!」

 彼は猛然と振り返り、背後の秘書を怒鳴りつけた。氷の礫(つぶて)のような声だ。

「村木、協議書を出せ!」

 村木と呼ばれた秘書が、おどおどと鞄から書類を取り出す。

 それは、とっくに用意されていた離婚協議書だった。

 彼はいつでも私を追い出し、三角静留にその座を明け渡す準備をしていたのだ。

 好都合だわ。

 信は書類をひったくると、私の眼前に叩きつけた。

 紙が飛び散り、鋭い縁が私の頬を掠めて赤い筋を残す。

「そこまで卑しい真似をして、俺に捨てられたいって言うなら望み通りにしてやる!」

 信は私を見下ろし、咆哮した。

「サインしろ! 今すぐだ! 書いたらさっさと三角家から出て行け、俺の視界から消え失せろ!」

「お兄ちゃん……」

 三角静留はこの修羅場に怯えたふりをして、おずおずと信の袖を引いた。

「そんな言い方しないで。お姉ちゃんもきっと、ただ……」

——

 私は散らばった書類を拾い集めた。

 条件など一瞥もしない。身一つで放り出されようと、莫大な借金を背負わされようと、この魔窟から出られるなら甘んじて受け入れる。

 秘書が差し出した万年筆を受け取る。

 ペン先が紙の上を走り、サラサラと音を立てる。

 三角惠子。

 最後の一画を書き終えた瞬間、千鈞の重荷を下ろしたような気がした。

 床に手をつき、ふらつきながら立ち上がる。膝がキリキリと痛むが、私は背筋を伸ばしきった。

「平野様、願いを聞き届けていただき感謝します」

 書類を村木秘書に押し付け、私はもう信を見ることなく、出口へと踵を返した。

「待て!」

 背後から、怒りを抑え込んだ信の声が飛ぶ。

 私は止まらない。

「三角惠子!」

 数歩で駆け寄ってきた信が、私の手首を乱暴に掴んだ。骨が砕けそうなほどの力だ。

「骨髄移植の手術がまだだろ! 離婚にかこつけて責任から逃げる気か? 静留を見殺しにするつもりか! どこまで悪毒な女なんだ!」

 無理やり立ち止まらせられ、私は振り返った。

 この期に及んで、まだ道徳を振りかざして私を縛り付けようとする男を。

 私が口を開くより早く、三角静留が泣き声混じりに飛びついてきた。その演技力は、大女優も裸足で逃げ出すレベルだ。

「お義兄さん、お姉ちゃんを責めないで!」

 彼女は信の前に立ちはだかり、涙に濡れた瞳で私を見つめた。健気な悲劇のヒロインそのものだ。

「お姉ちゃん、きっと痛いのが怖いんだわ。それか……私のことが嫌いだから……いいの、本当にいいの。私、治療はやめる。すぐ退院するから。私が死んでも、お姉ちゃんが幸せなら……」

 周囲の客たちは、即座にその空気に流された。

「なんてことだ、骨髄提供から逃げるために離婚騒ぎを?」

「身勝手すぎるだろ! 実の妹だぞ?」

「さっきの土下座で同情して損したよ。とんだ食わせ物だ! 人を助けたくないからって、公衆の面前で夫を脅すなんて」

 騒ぎを聞きつけた木村美奈子と三角成俊も駆けつけてきた。言葉を聞くや否や、木村美奈子が突進してきて、私に平手打ちを見舞った。

 パァン!

 乾いた音が響き、顔が横に弾かれる。口の中に鉄錆のような血の味が広がった。

「この人でなし!」

 木村美奈子は私の鼻先に指を突きつけ、罵った。

「静留が病気で苦しんでいる時に、こんな真似をして刺激するなんて! あの子を殺す気!? どうしてあんたみたいな冷血な怪物を産んでしまったのかしら!」

 平野信は私の頬に浮かんだ指の跡を見て、一瞬だけ力を緩めたようだった。だがすぐに握り返し、その瞳は再び冷酷な光を宿す。

「わかったか?」

 信は冷笑した。

「これがお前の望んだ結果だ。三角惠子、言っておくがな。離婚はしてやる。だが骨髄は提供してもらうぞ。それはお前が静留に返すべき借りだ」

 私は口角の血を拭い、目の前の歪んだ顔たちを見回した。

 ここで強行突破はできない。

「いいわよ」

 短く答えると同時に、私はポケットの中でスマートフォンを操作し、ある友人にメッセージを送った。

『助けて』

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