第2章
高橋義和は徹夜で帰ってこなかった。
私は一晩中、リビングのソファに座っていた。手元の灰皿には、吸い殻が山盛りになっている。
五年前にやめた煙草に、今、再び火をつけてしまった。
私は静かに待っていた。答えがとっくにわかっている問いの、その答えを。
翌日の夜七時、ようやく鍵が回る音が、アパートの静寂を破った。
義和がドアを開ける。手には銀座の高級寿司店のロゴが入った持ち帰り用の袋が提げられていた。
彼は顔に笑みを浮かべ、まるで何事もなかったかのように平静を装っている。
「ただいま」
彼は軽い口調で言う。
「君が一番好きな銀座の寿司屋だよ。二時間も並んだんだ」
私はかろうじて笑みを作り、その寿司の袋を受け取った。
そこは私たちがデートでよく行った店で、いつもは一週間前に予約しなければ入れない場所だ。
彼がバスルームへと向かう。
その彼が私のそばを通り過ぎた時、ふわりと香水の匂いがした。私の使っているものではない。
シャワーの音が響き始めると、私は寿司を置き、スペアキーを手に取って静かに階下の地下駐車場へと向かった。
義和の車は、いつもの場所に停めてあった。車体は綺麗に洗われていて、普段よりもむしろ綺麗なくらいだ。
キーでドアを開けると、助手席が私の慣れた位置に調整されていることに気づく。ここ一ヶ月、彼の車に乗っていないというのに、奇妙なことだ。
私の視線は、車載のドライブレコーダーに落ちた。電源を入れ、昨日の映像を再生する。
映像は昨晩十時半に始まった。義和は車を東京私立芸術学院へと走らせ、校門の前で停車する。
五分後、一人の女の子が乗り込んできた。
田中千佐登だった。
車に乗るなり、彼女はすぐに甘えた声を出した。
「義和君、十分も遅刻だよ! 凍え死ぬかと思った!」
義和は笑いながら彼女の髪をくしゃりと撫でる。
「ごめんごめん、道がちょっと混んでてさ」
生々しいキスの音と、喘ぎ声が記録されていた。
「あのおばさんに触ったりしてないでしょうね?」
田中が不意に尋ねた。
「なんだよ、急に……」
「答えて!」
彼女は頑なに問い詰める。
「心配するなよ、お姫様」
義和の声が柔らかく、そして言いようのない欲望を帯びたものに変わる。
「もう何か月も触れてない」
田中千佐登は満足のいく答えが聞けたらしい。
「ふん、あなたは私のなんだから」
義和はくすくすと笑って返す。
「後で泣いてやめてって言うなよ」
吐き気がこみ上げ、指が勝手に震えだす。
映像は続き、彼らは急かすようにして渋谷区のあるマンションへと車を走らせた。
次の録画は、今日の朝十時に始まっていた。車内には義和一人がいて、疲れているようだが満足げな表情を浮かべている。
彼は電話をかけた。
「もしもし、松本。俺、遅れるかも」
義和は電話に向かって言った。
『また例の芸大生のとこか?』
松本の声が、からかうようでありながらどこか咎めるような響きを伴って、車載のBluetoothスピーカーから流れる。
『お前、最近ちょっと度が過ぎてるぞ』
「仕方ないだろ、女の子は機嫌取るのが大変なんだよ」
義和は軽く笑う。
『いや、お前、それ本気なのか?』
義和は気のない様子で首を振り、笑った。
「何が本気で、何が嘘だよ」
『穂乃美さんには最後まで責任持つって言ってたじゃないか。なんで急に浮気なんか』
松本の口調が真剣なものになる。
義和は少し黙り込み、ふいに言った。
「穂乃美はもう三十五歳なんだぞ!」
『だからなんだ?』
「なんだろうな、あいつが三十過ぎたあたりからさ……なんか、汚く感じんだよ!」
「汚い」
という言葉が、鋭い刃となって私の心臓に突き刺さった。手が止まらずに震え、煙草の灰が手の甲に落ちてじりっとした痛みをもたらしたが、それもこの言葉が与えた傷には遠く及ばない。
五年前、私が煙草をやめたのは、義和が「愛する女から煙草の匂いがするのは嫌だ」と言ったからだ。それなのに今、彼は私のことを「汚い」と言った。
半年前、私たちの関係が変わり始めた頃のことを思い出す。
当時、出版社の四半期企画でひどく忙しく、私は三週連続で週末も残業していた。
義和が何度か求めてきたが、私はそれを断ってしまった。
三度目に断った後、彼は怒って家を飛び出した。
その夜、私は新宿のある居酒屋で泥酔している彼を見つけ、なんとか家に連れ帰った。
その後、私たちはかろうじて親密な関係を取り戻したが、感覚はまったく違っていた。彼は心ここにあらずで、以前のように私を抱いて眠ることもなくなり、いつも反対側を向いて寝た。
私が尋ねると、彼はいつも「考えすぎだよ、愛してるってわかってるだろ」と私をなだめた。
だが実際には、私たちはもう長いこと、本当の意味で親密な関係を持っていなかった。
私が求めても、彼はいつも仕事の疲れを理由に断った。
そして今、真相が明らかになった——彼の目には、この三十五歳の女は、もはや触れる価値もないほど「汚い」ものとして映っていたのだ。
例の「クリスマスケーキ理論」を思い出す。
女は三十を過ぎると、クリスマスの後のクリスマスケーキのように価値が急落する。
私は手の中の煙草を揉み消し、深く息を吸い込んだ。
それでも、あの言葉がもたらした痛みを拭い去ることは、どうしてもできなかった。
本当に、辛い。
