第1章

冬月佳奈の棺の前で、狩野真琴は黒いスーツに身を沈め、瞳の奥に溶けきらない悲嘆を滲ませていた。

たった三日。

彼の花嫁は、もう冷たい亡骸になっている。

「佳奈は生前、妹のことが何より気がかりだった。義兄として、絵里奈が嫁ぐ日まで俺が面倒を見る」

真琴は遺影を見つめたまま、顔も上げない。

「要らない。そんな世話」

死んだように静まり返った教会に、その声だけが不自然なほど硬く響いた。

冬月絵里奈が――狩野真琴の、胸を打つ誓いを正面から拒んだのだ。

誰にも、彼女の真意はわからない。

棺の傍らに立ち、冷えた木蓋に手を置いたままの真琴が、びくりと顔を上げる。

充血した目が、目の前の女を射抜いた。まるで今の言葉が聞き取れなかったかのように。

黒い喪服に身を包んだ絵里奈は血の気がなく、しかし瞳だけが決然と燃えている。

その声音には、感情の波が一切ない。

「世話して。けど、義兄としてじゃない」

「真琴、私を妻にして」

空気が、二秒ほど凍りついた。

直後、教会の中が抑えきれないざわめきに包まれる。

囁きが群衆の間で爆ぜ、参列者の顔には制御不能な驚愕が浮かんだ。

佳奈が逝って、まだ数日。

実の妹が、葬儀の場で姉の夫に結婚を迫る。

――恥知らず。

「うそ……私は何を聞いてしまったの?」

「正気じゃない。棺の前で義兄を誘うなんて」

「冬月家はどうやってあんな娘を育てたのよ。尻軽にもほどがあるわ」

視線は侮蔑に濡れ、誰もが絵里奈を唾棄した。

それでも絵里奈は意に介さず、ただ頑固に真琴を見つめ続ける。

自分の義兄。

自分が、どうしても嫁がなければならない男。

真琴の胸が大きく上下し、怒りで顔が歪む。

彼は段を降り、大股で詰め寄ると、絵里奈の襟元を掴み上げた。

「狂ってるのか!」

歯を食いしばった声は、絵里奈を引き裂く刃のようだった。

「佳奈は自分の命と引き換えに、お前を救った実の姉だ! 俺はお前の義兄だ! 葬式でそんな――」

「絵里奈、お前に恥ってものはないのか!」

掴む力が増し、呼吸が詰まる。

だが、喉を締められる苦しさより、彼の瞳の嫌悪のほうが痛かった。

真琴は襟を掴んだまま、絵里奈の顔を遺影へと向けさせる。

「棺を見ろ。死んだ姉を見ろ! お前は彼女に顔向けできるのか!」

良心?

絵里奈の心なんて、あの結婚式の日に砕け散っている。

怒号が遠のき、視界がまた、あの刺すような赤に染まった。

あの日も、周囲は悲鳴だらけだった。

誘拐犯は刃物を掲げ、真琴に二択を突きつけた。

彼が残酷な決断を下すより早く、佳奈が自ら飛び出した。

刃が肉へ沈む音。

それは、絵里奈の生涯で最も深い悪夢になる。

姉がいちばん幸せであるべき瞬間。

世界でいちばん美しい花嫁であるはずだったのに。

自分のせいで、結婚式で死んだ。

床に膝をつき、両手は生温い血でべたつく。

塞いでも塞いでも、姉の傷口から血が溢れた。

佳奈は絵里奈の手を強く握り、涙を溜めた瞳で、掠れた声を絞り出した。

「絵里奈……お願い……真琴と……結婚して……彼を……支えて……冬月家を……必ず……立て直して……」

「約束する! お姉ちゃん、何でもする! お願い、死なないで……!」

泣き崩れる絵里奈に残された、姉の最後の言葉。

それが、絵里奈の生涯の執念になった。

姉は自分のせいで死んだ。

血に染まったウェディングドレスの姿が、忘れられるはずがない。

自分を赦せるはずがない。

自分は罪人だ。

だから姉の遺志は叶える。たとえ最も卑しく、最も唾を吐かれる方法でも。

「――っ!」

乾いた音が頬を打ち、絵里奈は血の記憶から現実へ引き戻された。

顔が横に弾かれ、口の中に鉄の味が広がる。

目の前に立っていたのは冬月知代。

手入れの行き届いた手が、小刻みに震えている。

いつも体面を重んじる母は、今や形相を崩し、絵里奈を指さして罵声を浴びせた。

「恥知らずの屑!」

甲高い叫びが耳を刺す。

「男に飢えて狂ったの? 佳奈が目を閉じたばかりなのに、もう義兄のベッドに這い上がる気? 冬月家の面目は丸潰れよ! こんな恥さらしになるなら、産まなきゃよかった!」

「あなたみたいな娘はいない!」

冷たい言葉が胸を裂いても、絵里奈は折れなかった。

周囲の参列者は指をさし、嘲笑を隠しもしない。

「家の不幸だな」

「知代さんも気の毒に。立派な娘を失って、こんなろくでなしまで抱えるなんて」

絵里奈はゆっくり顔を向け、痺れる頬を舌先で押した。

手で押さえもしない。泣きもしない。目も揺れない。

辱めも、罵倒も、平手も――姉の遺志に比べれば塵だ。

母の肩越しに、恨みで濁る男の目を見据える。

そして、もう一歩近づき、冷え切った声で繰り返した。

「私を妻にして、真琴」

「出て行け!」

真琴が耐えきれず腕を振る。汚物を払うみたいに。

「小野彰! こいつを放り出せ! 佳奈が天国へ行く道を汚させるな!」

屈強な男たちが駆け寄り、絵里奈の腕を乱暴に掴んで引きずった。

抵抗はしない。踵が床を削り、きい、と嫌な音が響く。

視線だけは人垣を貫き、佳奈の白黒の遺影を睨み続けた。

無言の誓いだ。

――やるから。

――必ず、叶える。

バタン!

重い木扉が目の前で閉じ、内側の温もりも光も遮断された。

外は豪雨。

冷たい雨がたちまち薄い黒い喪服を濡らし、骨まで冷える。

ふらついて二歩。膝が折れ、硬く濡れた石段に膝をついた。

膝骨が石に当たる痛みが走っても、感じないみたいに。

雨が青白い頬を伝う。雨か涙か、もう区別がつかない。

絵里奈は雨の中で跪き続けた。

閉ざされた扉に、扉の向こうの真琴に、そして天国にいる姉に。

自分は罪人だ。

姉を殺し、姉の幸せを壊した。

これからは、姉殺しの汚名だけでなく、義兄を誑かす尻軽の汚名も背負う。

それでいい。

それは、受けるべき罰だ。

姉の遺志を叶え、冬月家を復興させられるなら。

真琴に一生憎まれても、世界に唾を吐かれても、受け入れる。

姉の葬儀の日。終わりのない雨の中で、絵里奈は誓った。

姉のためなら何でもする。死ねと言われても、死ぬ。

次のチャプター