第11章

脂ぎった大きな手が、絵里奈のスカートの裾を裂こうとした――その瞬間。

喧騒を貫く、獣じみた悲鳴が上がった。

「ぎゃあああっ――!」

黒いスーツのボディーガードが、どこからともなく現れる。

無駄のない動き。瞬きする間もなく、卑しい手を伸ばした男たちを床へねじ伏せた。

さっきまで腹を抱えて笑っていた連中が、今は揃って膝をつき、喉を潰したように泣き叫ぶ。

カジノが、凍りついた。

残ったのは、荒い呼吸の音だけ。

真琴が影から出てくる。

床に転がるゴミなど一瞥もしない。

視線は群衆を越え、賭け卓の脇に立つ、あの女へ――釘づけになった。

絵里奈は立っていた。

死体安置所から運び出されたばかりみたいに、顔色は白い。腕も、灰色のスカートも、血で汚れている。

……なんで、こんなに血が。

死ぬのか。

絵里奈の膝が折れた。

人々の悲鳴が上がる中、彼女は棒切れみたいに、真っ直ぐ後ろへ倒れる。

ようやく……痛くなくなる。

真琴の足が、わずかに止まった。

次の瞬間、腰を落とし、血まみれの絵里奈を乱暴に抱き止める。

「死にたいのか?」

斜めに睨みつけ、氷みたいな声を落とす。

「そんな簡単に死なれちゃ、安すぎるだろ」

絵里奈の頭が、力なく彼の胸に寄りかかる。

高価なコートに血が擦りついた。

「……もう、いい? 真琴」

絵里奈の声は、かすれて、軽い。

「全員、片づけろ」

真琴はそれだけ吐き捨てた。

そして口角だけを歪め、わざと傷口に指を押し当てる。

絵里奈が息を詰まらせても、構わない。

「絵里奈。これで俺が手加減するとでも? 自傷で同情を買うとか……相変わらず下劣だな」

「勝ったわ」

絵里奈は嘲りを無視し、血のついたチップの山を指さす。

「一千万円。やった。署名して」

お姉ちゃんの遺志を叶えたい。

それだけ。

この身体がどう腐ろうと、どうでもいい。

真琴は、死人と変わらない顔を見て、腹の底が煮えたぎった。

どうして、そんなに平静でいられる。

この場で輪姦されかけたくせに、気にしているのは紙切れ一枚だけか。

「勝ったら投資するとは言った」

真琴は手を放す。絵里奈の身体が賭け卓にぶつかり、鈍い音がした。

彼はポケットからハンカチを取り出し、眉をひそめて絵里奈の血を拭う。

まるで、汚物でも触ったみたいに。

「……でも、気が変わった」

絵里奈が顔を上げた。

死んだ瞳に、ようやく小さな揺れが走る。

「そんな……できない」

「できる」

汚れたハンカチを彼女の顔に投げつけ、鬱陶しい目元を覆い隠す。

「俺はディーラーだ。ルールは俺が決める」

一歩詰め、絵里奈を賭け卓との間に追い込む。

「金が欲しいなら、くれてやる」

真琴の視線が、煙と汗と酒の臭いが染みついた空間をなぞり、残酷な笑みに変わった。

「ここで。俺を楽しませろ」

絵里奈が固まる。血の気が、すっと引いた。

「……ここで?」

「嫌か?」

真琴は低く嗤う。

「金のためなら何でもするんだろ。狩野家の奥様になりたいんだろ。なら見せろよ。妻の義務ってやつを」

腰を折り、逃げ場のない距離で見下ろす。

「脱げ」

たった一文字で、絵里奈の最後の尊厳が砕けた。

目の前の男は、お姉ちゃんが愛した人。

自分が、ずっと隠してきた想いの相手。

その男を、煙草と血と腐った欲望の匂いにまみれた賭け卓の横で、安い娼婦みたいに楽しませろと言う。

罰。

自分は汚い。佳奈を殺した。

「……わかった」

絵里奈はまた、あの麻痺した顔に戻った。

傷口を押さえていた手を離す。

血が指先から落ち、床を小さく叩く。たっ、たっ、と。

まだ血の滲む手を、破れかけた灰色のロングスカートへ伸ばした。

佳奈がいちばん好きだった、灰色のカシミア。

今は血で染まり、汚れている。

ビリッ――。

布の裂ける音が、静まり返った空気を切り裂いた。

真琴は動かない。

冷たい目で見ている。

鎖骨が覗く。

白い肩が露わになる。

こんな吐き気のする場所で、自分の身体を差し出そうとする姿。

相手が自分であっても、腹が立つ。

……どこまで卑しいんだ。

「……っ」

傷の痛みで指が震え、ボタンが外せない。

絵里奈は歯を食いしばり、乱暴に引きちぎった。

ボタンが飛び、ころころと床を転がる。

彼女は立ち上がる。傷ついた脚を引きずり、真琴へ一歩ずつ近づいた。

血に濡れた手が、彼のシャツを掴む。

震えている。

恥ではない。痛みと、寒さで。

一つ目のボタンを外す。

冷たい指先が、彼の温い胸に触れた。

「何してる」

真琴が、唐突に手首を掴んだ。

力が強すぎて、傷にかかる。涙が出そうな痛み。

それでも絵里奈は抵抗しない。ただ従って止まり、顔を上げた。

瞳は空っぽ。

従順。

またそれか――。

「お前、誇りはどうしたんだよ、絵里奈!」

真琴の怒りが決壊する。

乱暴に引き寄せ、胸へ叩きつけた。

大きな手が後頭部を押さえつけ、容赦なく唇を奪う。

優しさはない。情けもない。

あるのは罰だけ。

歯が唇を裂き、血の味が二人の口に広がる。

「ん……!」

窒息する感覚が、誘拐された夜を呼び戻す。

血まみれのお姉ちゃん。

絵里奈は反射で両手を彼の胸へ当てた。

真琴は、それを拒絶だと思った。

「……何が演技だ」

彼は乱暴に唇を離し、突き放す。

絵里奈は床へ叩きつけられ、痛みで息が止まりかけた。

「さっきまで、あんなに積極的だったくせに」

真琴は立ったまま、胸を上下させる。

口元の血を拭い、嫌悪の目で吐き捨てる。

「今度は清純ぶって被害者か? 絵里奈、お前、自分がどれだけ気持ち悪いか分かってるのか」

嫁ぎたい。這い上がりたい。

そのために手を汚してきた女が、今さら傷ついた顔をする。

「そんなにここが好きなら、残ってゆっくり味わえ」

真琴は懐から小切手を出し、施すみたいに絵里奈へ投げた。

「欲しがってたのは、これだろ」

そう言い捨て、逃げるように去った。

これ以上ここにいれば、空気に毒されると言わんばかりに。

ボディーガードが続く。

最後に残ったのは、真琴の補佐役――小野彰だった。

足を止め、振り返る。

あの女は、まだ床にいた。

泣かない。

小切手も拾わない。

ただ黙って裂けた衣服を引き寄せ、無事なほうの手で床を支え、ゆっくり、ゆっくりと起き上がった。

立ち上がり、歯を食いしばって痛みに耐える。

――なんだ、あの目は。

絶望もない。崩壊もない。

あるのは、麻痺したまま折れない硬さだけ。

小野彰の背筋が冷えた。

社長が言う「我儘で悪毒な次女」と、まるで違う。

「行くぞ!」

前方から真琴の荒い声が飛ぶ。

小野彰は視線を引き剥がし、足早に追った。

巨大な鉄扉が、ドン、と重く閉じる。

絵里奈は、がらんとしたロビーの中央に立っていた。

腕の血はまだ止まらず、足元の床を赤く染めていく。

腐った臭気と、自分の血の匂いが混じり、吐き気がした。

痛い。

全身が、痛い。

それでも――手に入れた。

絵里奈は屈み、埃にまみれた小切手を拾い上げる。

これでいい。

お姉ちゃん。

やったよ。

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