第2章
葬儀から三日後。真琴は仕事でM市へ向かった。
ミレニアムホテルの最上階スイート。床に座り込み、ウイスキーを少しこぼした。高価なペルシャ絨毯に染みた甘い香りが、堕落みたいに漂う。
夜は優しくない。ネオンが空を真っ赤に焼き、あの婚礼の血を思わせる。
真琴はワイングラスを握り潰しそうな力で掴んでいた。
葬儀が終わって以来、目を閉じるたび佳奈の血まみれの姿が飛び出す。次の瞬間には、結婚を迫ってきた絵里奈の顔へ変わる。二つの顔が重なり、現実と悪夢の境目が曖昧になった。
真琴は絵里奈が心底嫌いだ。
姉の死を利用し、狂ったように近づいて誘惑してきた女。
だが本当に彼を追い詰めたのは、冬月家と縁を断ち切ろうとするたび脳裏に浮かぶ、佳奈に酷似した絵里奈の目だった。その似方は、まるで自分を殺しに来るみたいで。
そのとき、チャイムが鳴った。
ドアがわずかに開き、廊下の暖色の灯りが絨毯に長い影を落とす。
絵里奈が立っていた。手には、細工された形跡のあるルームキーをきつく握りしめている。
真琴の出張を知った絵里奈は、すぐにM市へ飛んだ。真心で彼の心を動かし、姉の遺志を果たしたかったから。
身に纏うのは、レトロな白いシルクのスリップドレス。佳奈が生前好んだ型で、上品なのに曲線を残酷なほど綺麗に拾う。
髪型、香水、歩き方まで——姉のすべてを真似た。みっともない「模倣」だと知っていても、姉のために。真琴が、佳奈のためなら受け入れてくれるかもしれない、と。
だが部屋の中を見た瞬間、絵里奈は息を呑んだ。明日のアフタヌーンティーを何にするか考えていた自分の愚かさに気づく。
ここは自分の部屋じゃない。
キーをすり替えられている。
深く息を吸い込み、眠っている男を起こそうとした。
「真琴……?」
試すような声。震えが混じる。
ソファの男が、ぴくりと動いた。
真琴が顔を上げる。酔いで霞んだ目が、暗がりの白い影を捉えた。
顔。輪郭。佳奈だけの香り。
「……佳奈?」
ふらつきながら立ち上がり、膝でテーブルのグラスを倒しても気づかない。信じられない喜びが瞳に溢れた。
「帰ってきた……やっぱり死んでなかった……俺は知ってた……」
駆け寄り、絵里奈の腕を掴む。
説明する間もなく、熱い手が腰を乱暴に締め上げた。酒の匂いと男の匂いが、息を奪う。
「真琴、よく見て。私は——」
「シー——」
乱暴に遮られ、震える指が頬を撫でた。眉骨から唇へ滑り落ちる。夢の中でさえ触れられない宝物に触れるみたいに。
「話すな……頼む……もう離れないでくれ」
いつも傲慢で誰にも頭を下げない狩野グループの後継者が、子どもみたいに縋りつく。喉を詰まらせた声で。
「俺はもう壊れそうだ、佳奈……助けてくれ……」
絵里奈の胸が、ぎゅっと潰れた。
かつて彼は姉の恋人だった。今は自分を抱きしめ、姉の名を呼んでいる。
——お姉ちゃん、これが望んだ幸せ?
考える暇もなく、熱いキスが降り注いだ。失って取り戻した狂気。絶望的な独占欲。噛みつくみたいに激しく、奪い尽くすように。
「ん……」
押し返そうと胸に手を当てるが、男は首筋に顔を埋めた。
「くれ……頼む、佳奈、俺を愛して……」
熱い涙が鎖骨に落ち、魂まで震える。
その瞬間、絵里奈は抵抗をやめた。
これが家を立て直す代償で、姉が望むことなら——
「……うん」
目を閉じ、冷たい涙が一滴落ちる。背中に腕を回し、息みたいに呟いた。
「……わかった」
その一言で真琴の理性が崩れた。
彼は絵里奈を抱き上げ、寝室の大きなベッドへ向かう。
窓の外は嵐が止まない。部屋の中は、愛の名を借りた「生殺し」だった。
真琴は優しく、そして熱かった。耳元で何度も囁く。
「愛してる」
「ずっと一緒だ」
甘ったるい毒みたいな言葉が、腐りきった心臓を刺し抜く。
絵里奈は求められるままに耐え、シーツに爪を立てる。意識の奥には、刃を受けた姉の、柔らかくも決然とした微笑が焼き付いていた。
ごめんなさい。
そして……愛してる、真琴。
十年以上胸に腐らせてきた告白は、結局、声にならない嗚咽へと溶けていく。
……
目が覚めた真琴は、頭痛に呻いた。
腕の中の温もりに反射で抱きしめ、満足げに口元が緩む。
佳奈が戻った。
そう信じて目を開け——抱いている相手の顔を見た瞬間、笑みが凍りついた。
違う。
佳奈じゃない。絵里奈だ。
昨夜の記憶が雪崩れ込む。忘れていたかった。
自分はこの女と——?
「どけ!」
咆哮とともに起き上がり、眠っている絵里奈を蹴り落とした。
絵里奈は絨毯に叩きつけられ、骨がばらけたみたいに痛む。
顔を上げた瞬間、首に手が伸びた。
強い指が喉を掴み、ベッドへ押さえつける。赤い目の真琴は理性を失った獣だった。本気で殺す気だ。
「嵌めたのか?」
歯の隙間から言葉が漏れる。
「絵里奈、お前は本当に吐き気がする! 姉の服を着て俺のベッドに這い上がったのか! 恥を知れ!」
息が詰まり、顔が赤くなる。腕を叩いてもびくともしない。
「男がそんなに欲しいか?」
怒りがさらに燃える。
「お前は彼女の代わりになんてなれない! 彼女のものに触れる資格もない!」
乱暴に手が離れた。
「違う……」
絵里奈は床に崩れ、息を貪る。咳で涙が溢れ、首には紫の痕が残った。
真琴は床のガウンを掴んで羽織り、蔑むように見下ろす。
「一晩寝た程度で狩野家に入れると思うな。俺が愛してるのは佳奈だけだ。お前なんか——」
冷笑し、財布から札束を引き抜くと、絵里奈の顔へ叩きつけた。
紙の縁が頬を切り、札は裸の身体にぱらぱらと落ちる。
「昨夜の売り上げだ。金を持って消えろ」
そう言い捨て、浴室へ入ってドアを叩きつける。
すぐにシャワーの音がした。自分の匂いを洗い落としたいのだろう。
絵里奈は散らばる札の中に座り込んだ。身体には昨夜の痣が残り、喉には紫の指の跡。
バン!
外の扉が閉まる音が響き、壁まで震えた。
絵里奈は乱れたベッドに身を縮め、痛みと絶望を抱えて膝を抱える。顔を腕に埋め、ついに声を殺して泣いた。
その頃、廊下の突き当たり。
キャップを被った男が小型カメラをポケットへしまう。送信済みのメール画面——宛先は、名門の醜聞に飢えたゴシップメディアの連中だ。
添付には、衣服の乱れた絵里奈のベッド写真。そして今朝、怒りに任せて去る真琴の高画質の写真と動画一式。
男は冷たく口角を上げ、通話ボタンを押した。
「ご希望どおり。片付きました」
