第5章
真琴の声には抑揚がない。だからこそ、絵里奈の心臓は壊れそうな勢いで跳ねた。
「嫌いじゃないって言うなら、残すな」
真琴は乱暴に身を屈め、何百万もする腕時計をはめた手で、絨毯の上の汚れを鷲づかみにした。深紫のジャムに砕けたパイ生地が混じり、粘ついた塊が掌にねっとり張りつく。
絵里奈が状況を理解するより先に、顎を鉄のような手でこじ開けられた。
「んっ――!」
恐怖で目を見開き、後ずさろうとする。だが背中を押さえ込まれ、逃げ場はない。
真琴は一切の躊躇もなく、ジャムと埃にまみれた手を絵里奈の口の中へねじ込んだ。甘ったるさが一瞬で苦味に変わり、舌の上で爆ぜる。
「食え」
眼差しは獣のそれだった。指はさらに奥へ入り込み、吐き出すことすら許さない。
「それ、お姉ちゃんの大好物だろ。真似したいんじゃなかったのか」
大量のブルーベリージャムが喉を塞ぎ、息ができない。生理的な涙が勝手に溢れ、頬を伝った。
絵里奈は必死に真琴の腕を叩き、爪で高価なシャツに皺を刻む。それでも男の手は止まらない。
「飲み込め!」
怒鳴り声と同時に力が増す。
絵里奈は無理やり嚥下させられた。甘ったるい塊に、噛み切った唇から滲んだ血の鉄臭さが混ざり、食道を滑り落ちていく。胃がきゅうっと痙攣した。
全部を押し込むと、真琴は汚物でも捨てるみたいに手を引き抜き、残った粘つきと屑を絵里奈の高価な寝間着で拭った。
「げほっ……けほ……!」
空気を取り戻した瞬間、絵里奈は床に崩れ、激しく咳き込む。えずく音が喉の奥で乾いて響いた。腹の底で甘さが暴れ回り、吐き気が波のように押し寄せる。
耐えきれない。
絵里奈は転ぶようにして洗面所へ駆け込み、便器の縁にしがみついたまま吐いた。さっき無理やり詰め込まれたブルーベリーパイと、昨夜から残っていた胃酸まで、すべて。
鏡の中の女は髪が乱れ、口元に紫紅の汚れを残している。まるでゴミ捨て場から這い出た乞食だった。
真琴は洗面所のドア枠にもたれ、冷え切った目で眺めていた。そこに憐れみはない。あるのは復讐の快感と、さらに深い嫌悪だけ。
「気持ち悪い」
吐き捨てるような声。
「パイひとつでそれか。お前の身体の中には、佳奈への憎しみがどれだけ詰まってる?」
絵里奈は震える指でレバーを押し、水を流す。立ち上がりかけて、掠れた声で言い訳を探した。
「違う……わたしは……」
強引に押し込まれただけだ。
それに、甘いものを大量に食べると反射的に吐き気が出ることを、真琴だって昔は知っていた。
けれど真琴は聞かない。
大股で近づくと、子猫を掴むみたいに絵里奈の襟元を掴み、洗面所から引きずり出した。
「そんなにここが嫌いなら、叶えてやる」
虚脱した絵里奈を容赦なく引きずり、佳奈の記憶で満ちた部屋から追い出す。
廊下の反対側の空き部屋。
そこには惨白な壁と、氷みたいに冷たい床だけ。絨毯も、飾りも、姉の痕跡もない。
絵里奈は床に伏し、荒く息をした。心のどこかで、滑稽なほどの安堵が芽生える。
少なくとも――ここには、お姉ちゃんの写真がない。見られない。
よかった……。
「ほっとしたか?」
頭上から嘲る声が落ちてくる。
真琴はいつも、絵里奈の一番奥の考えを掬い上げ、最悪の形にねじ曲げた。
「お前みたいな汚物に、彼女の痕跡のある部屋は勿体ない」
そう言い捨て、クローゼットから白い防塵袋を引きずり出す。
ビリッ。
袋が裂かれ、純白のレースのロングドレスが絵里奈の顔へ叩きつけられた。視界が白に塞がれる。
「着替えろ」
短い命令。拒否は許されない。
絵里奈は震える手でドレスを引き剥がし、形を見た瞬間、血の気が引いた。
佳奈が十八歳の成人祝いで着たドレス。
あの頃、姉はまだ細く、腰は絞られ、何も汚れていなかった。いちばん清らかで、いちばん美しかった時間。
「……だめ」
絵里奈は首を振る。声が震える。
「サイズも違うし……それは、お姉ちゃんが大事に……」
「着ろって言ってんだろ!」
真琴が突然蹴りつけ、椅子が激しい音を立てた。絵里奈の身体がびくりと縮む。
真琴は間合いを詰め、壁に腕をついて逃げ場を塞いだ。耳元の壁に掌が叩きつけられ、絶対的な檻が出来上がる。
「取って代わりたいんだろ。俺のベッドに這い上がったんだろ。今さら清らかぶるな」
低い声が、刃みたいに喉元を撫でる。
「絵里奈、俺に脱がせたいのか」
迫る男の顔は、かつて少女の絵里奈が幾度も夢見た輪郭のはずなのに、今は悪魔みたいに歪んで見えた。
絵里奈は肩を震わせ、涙で濡れた顔を上げる。ついに、壊れた。
「違う! 真琴、わたしは一度も……お姉ちゃんの代わりになろうなんて思ったことない!」
「黙れ!」
真琴の我慢が尽きた。
一歩踏み込み、絵里奈を壁へ突き飛ばす。
ドンッ。
後頭部と額が硬い壁に叩きつけられ、視界が真っ黒になった。額が熱を持ち、みるみる腫れていく。痛みに身体が震え、涙が止まらない。
真琴は屈み、顎を掴んで無理やり顔を上げさせる。
氷みたいな目。感情の温度が、どこにもない。
「脱げ」
命令だった。
絵里奈は、真琴の瞳に映る憎悪を見て、心のどこかがぷつりと切れた。泣くのをやめる。弁解も捨てた。
震える指で寝間着の紐をほどく。
尊厳なんて言葉は、ここにはない。
自分は罪人で、ただ裁かれるだけのものだ。
姉の白いドレスを掴み、身に通す。絵里奈には少し大きく、布がだらしなく落ちた。
絵里奈は動かない。
意志を奪われた木偶みたいに、次の侮辱を待つ。
真琴は鼻で笑った。嫌悪は薄れるどころか、いっそう濃くなる。
「醜い」
粗悪な偽物を見る目で言い切る。
「そこで反省してろ。自分が何者か思い出すまでな」
そう言い捨てて背を向け、真琴は部屋を出た。絵里奈を一度も振り返らない。
扉が閉まり、光が断たれる。
暗闇の中、絵里奈は白いドレスに締め付けられたまま立ち尽くし、やがてゆっくりしゃがみ込んだ。膝を抱え、冷たい壁に額を当てる。
「お姉ちゃん……」
声にならない唇の動き。
涙が腫れた頬を滑り、白い裾へ落ちて、小さな濃い染みを作った。
一生懸命、やってるのに。
……痛いよ。
