第1章 彼を誘惑する
部屋の中には、どこか湿ったような艶めいた空気が漂っていた。
広いベッドの上で、伊原綾音は熱に浮かされたようにぼんやりしながら、整った顔立ちの男の喉元を舌先でなぞる。これでもかというほど、艶やかに。
今日、病院で見てしまったのだ。
北野隆也が愛人を連れて検査に来ていたところを。
しかも、その女は妊娠していた。
あの人は、隠し子を作ることは厭わないくせに、妻である自分には産ませようとしない。
――お前は汚い。
触れるだけで吐き気がする。
そう言った。
四年前、新婚だったあのころ。
父が突然事件を起こして収監され、綾音は必死で情報をかき集めていた。焦りすぎたせいだろう、その夜、ホテルで何者かにはめられ、何も分からないまま初めてを奪われた。
それから彼は、彼女に触れなくなった。
いや、触れなくなったというより、最初から一度も触れていない。
けれど彼が触れないのなら、彼女を厭わない男だっている。
たとえば、この男。
隆也より、ずっと綺麗な顔をした男。
バーで偶然出会っただけの相手だったが、その容姿は群を抜いていた。
何度か舐めるように誘いをかけると、男がふいに身を翻した。
次の瞬間、綾音は彼の下に組み敷かれていた。
だが、男はなかなか次の行動に移ろうとしない。
伊原綾音は白い腕を伸ばして男に絡みつき、顎を上げて口づけようとする。
「私……ちゃんと、きれいだから……」
「本当に?」
低く、耳に心地よい声だった。
なのにそのひと言が、彼まで自分を汚れていると思っているようで、綾音の胸に苦さを落とす。
「あなたも……私のこと、汚いって思うの?」
彼女の目ににじんだ涙が効いたのか、それとも震える声が効いたのか。
男はふっと顔を寄せ、彼女に口づけようとした。
唇が触れ合い、息も乱れるほど激しくなった、そのとき――
どん、と大きな音がした。
「定期確認です。開けてください――」
ぱっと灯りがつく。
ほろ酔いだった伊原綾音の頭は、一気に冴えた。
見上げた先で、男の深い瞳がこちらを覗き込んでいる。
そのまま吸い込まれそうなほど、昏く、底知れない目だった。
どくん、と心臓が跳ねる。
こんな状況は初めてで、どうしたらいいのかわからない。
そのあいだも、ドアを叩く音は続いていた。
結局、男が起き上がり、扉を開けに向かった。
綾音はその隙に身を起こす。
頭は重いし、体からは力が抜けている。ベッドの背にもたれながら、彼女は両腕を抱きしめるようにして縮こまった。
どうして自分は、たかが男ひとりのために、こんなところまで来てしまったのだろう。
「澄川社長、お邪魔しました」
扉の向こうから声がする。
「中まで確認しますか?」
誘うような言い方なのに、声の奥に滲む威圧感は隠しようがなかった。
「澄川社長は女嫌いだと聞いていましたが……こちらこそ失礼しました」
その声は、扉が閉まる音とともに途切れた。
伊原綾音はほっと息をつく。
緊張がほどけた途端、気まずさといたたまれなさがどっと押し寄せた。こんなことをするのは初めてなのに、よりにもよって見回りに当たるなんて。
「続ける?」
低い問いかけが、甘く耳の奥をくすぐった。
綾音が顔を上げると、男は入口脇の酒棚にもたれ、長い脚を気だるげに交差させていた。だらしなさとは無縁の、けれど気ままな色気をまとった立ち姿。
切れ長の目が面白がるように彼女を見つめる。
その右手では、左手首の数珠ブレスレットを指で弄んでいた。
妙に似合わないはずの仕草なのに、不思議と野性味と近寄りがたさがひとつに溶け合っている。
こんな男、初めて見た。
ただ綺麗なだけじゃない。
人を引き寄せるような、抗いがたい魔性がある。
そしてその魔性が、彼の内に潜む鋭さをうまく覆い隠していた。
だからバーで、綾音は彼に手を出したのだ。
ただのホストだと勘違いして。
けれど、さっきのやり取りを見る限り、彼はホストどころではない。
相当な立場の人間なのだろう。
もしこんな相手に、自分が人妻だと知られたら――この街では生きていけなくなるかもしれない。
綾音はふらつきながら立ち上がり、落ち着かない手つきで指を絡めた。
「すみません。酔ってたみたいで……」
「怖くなった?」
男が近づいてくる。
歩き方まで洗練されていて、その目は笑っているようで、少しも笑っていない。
綾音の胸はひどく騒いだ。
とくに彼が目の前で立ち止まり、体温を含んだ男の匂いがふわりと届いた瞬間、酒のせいか、その匂いのせいか、鼓動はいっそう速くなる。
男は彼女の顎をつまみ、からかうように鼻で笑った。
「さっきまでは、あんなに誘ってたくせに――ん?」
軽い口調。
けれどそこには、人を惑わせる甘さと、踏み越えるなという警告が同居していた。
綾音は緊張で喉を鳴らす。
読めない。
けれど機嫌を損ねるのはまずいと思い、咄嗟に言い訳を口にした。
「……安全じゃないので」
男はふっと笑う。
淡々とした声音に、薄い嘲りが混じった。
「安全なら、いいってことか」
伊原綾音は顎を上げさせられたまま、目尻をうっすら赤く染めて彼を見つめ返した。怯えた白兎みたいに頼りなく、それでいて妙に目を引く。
彼女が答えないでいると、男もそれ以上は追いつめなかった。
手を離し、背を向けて酒棚のほうへ戻る。
瓶とグラスが触れ合う、かちりという音。
すぐに、強いウイスキーの香りが空気に広がり、綾音はますます頭痛を覚えた。
この場で帰るのも帰らないのも、どちらも気まずい。
見回りの人間がまだ近くにいるなら出にくいし、かといって見知らぬ男女が同じ部屋にただ居続けるのも、ひどく居心地が悪かった。
どれくらい経ったのか。
やがて、感情の読めない声が響く。
「もう行った」
彼ら――見回りの人間のことだ。
つまり、もう安全だということ。
続けるのか、それとも帰るのか。
そう訊かれているのだと、綾音はすぐに悟った。
彼女は慌ててバッグを手に取り、決めたように言う。
「お邪魔しました」
男の唇に、嘲るような笑みがかすかに浮かぶ。
返事はない。
綾音はそれを黙認と受け取り、ドアへ向かった。
無事に部屋を出た瞬間、ようやく胸の奥の息が抜ける。
彼女は足早にエレベーターへ向かった。
部屋では、酒を飲み干した男が酒棚を離れ、浴室へ向かっていた。
だが途中で足裏に何かが当たり、わずかに眉をひそめる。
視線を落とすと、銀色のブレスレットが転がっていた。
しゃがんで拾い上げる。
女物のアクセサリーだ。
この部屋にほかの女は来ていない。
だとすれば、さっきの女のものだろう。
男は立ち上がると、そのブレスレットを無造作にベッドサイドへ放った。
……
伊原綾音がホテルを出て、ちょうどタクシーをつかまえたとき、親友の江見瑠璃から電話がかかってきた。
「綾音、どこ行ってたのよ。探し回って気が狂いそうだったんだけど」
さっきのことをどう話せばいいのかわからず、伊原綾音はタクシーに滑り込みながら、できるだけ軽く言った。
「瑠璃、もう帰るから」
今夜は気分がひどく沈んでいて、友人に誘われて飲みに出た。
その途中であの男を見かけ、ふらりと誘って部屋まで取った。
無事だとわかると、瑠璃はようやく安心したように電話を切った。
伊原綾音は車窓にもたれ、外のネオンをぼんやり見つめる。
光は幾筋にも交差し、灯っては消え、また灯る。
四年前に暗く閉ざされてから、彼女の人生にはもう光が差さない。
四年。
いまだに彼女は、この息苦しい泥沼から抜け出せずにもがいている。
目を閉じると、目尻からこぼれた涙が、流れる光の中でそのまま鬢の髪へ滲んでいった。
北野家に足を踏み入れると、北野の母がソファに座っていた。
目を吊り上げ、今にも食ってかかりそうな顔をしている。
「どこで男漁りしてきたの」
伊原綾音はひどく疲れていて、まともに相手をする気力もなかった。
そのまま二階へ上がろうとしながら、淡々と答える。
「友達と出かけていただけです」
「お待ちなさい」
その声と同時に、北野の母は立ち上がり、彼女の前へ詰め寄った。指を突きつけ、露骨に嫌悪をにじませる。
「酒臭いったらありゃしない。どうせろくでもない連中とつるんでたんでしょう」
「それに四年も経って、産んだのはあの厄介者ひとりだけ。隆也に男の子ひとり産んでやれもしないで、あんたは少しも焦らないのね。言っておくけど、外でできた子が生まれたら、その子は北野家に迎えることになるんだから。妙な真似はしないことね」
伊原綾音は足を止めた。
白々しい蛍光灯の下で、顔色はいっそう青白く見える。
彼女は冷たく笑う。
北野隆也にでも言わされているのだろう。
それとなく探りを入れに来たのだ。
「何がおかしいの。まさか嘘だとでも思ってるの? はっきり言うけど、隆也の女が妊娠したのよ。その子が男なら認知するわ。あんたが素直に受け入れるなら話は早いし、嫌だというなら北野家を出ていきなさい」
伊原綾音は、ぼんやりと北野の母の顔を見つめた。
よそで産ませた子を、この家に連れてきて。
自分に育てさせるつもりなのか。
