第2章 本当に愛しているわけではない
いったい、どこまで彼女を踏みにじれば気が済むのか。
この数年、どんな嫌がらせも飲み込んできた。けれど今は、もう耐える気になれなかった。
「わかった。出ていく」
伊原綾音はそう言い切ると、二階へ上がった。
北野の母は、脅しが利かないとは思っていなかったのだろう。顔を真っ赤にして地団駄を踏み、指を突きつけて喚き散らす。
「出ていくなら二度と戻ってくるんじゃないよ! 自分がお嬢様だとでも思ってるの? あんたなんて今じゃ落ちぶれた――」
十数分後。
綾音は眠ったままの娘を抱いて階段を下りた。傍らには高村さんが付き添い、スーツケースを引いてくれている。
そうして彼女は、北野家を出た。
その足でホテルを取り、明日から部屋を探すことにした。北野家には、もう戻れない。
……
翌朝早く、伊原綾音は娘を幼稚園へ送り届け、そのまま雲峰へ出社した。十時頃、北野隆也から内線が入る。
――昨夜、北野の母に突きつけられた話。逃げようがない。むしろいい。全部、正面から片をつける。
社長室の扉を叩き、綾音は机の前に立った。表情を消したまま、彼を見下ろす。
北野隆也の視線が、顔に落ちる。
「今夜、席がある。石田海が大物を連れてくる。おまえが行って相手をいい気分にさせろ。そうすれば、石田海はおまえの持ってる案件にサインする」
綾音は言葉を失った。てっきり、昨夜家を出た件を言われると思っていたのに。
――接待? 酒の席に出ろって?
信じられなくて、乾いた笑いが漏れる。
「北野隆也……またあなたの本性を見せてくれたわね。妻に酒を飲ませて、案件を取れって?」
隆也の目つきが、すっと冷たく鋭くなる。
「酒を飲めと言ってるだけだ。それに――おまえだって男と寝たことがないわけじゃない。子どもまで産んでるんだしな」
綾音の瞳が、ぐっと縮んだ。
裂けるような怒りがこみ上げ、血の気が引いていく。両脇に垂れた手は、きつく拳を作っていた。
――あのとき、罠にはめられて……一か月後には妊娠していた。隆也は産めと迫った。……それを、ずっと、私を貶す道具にしてきた?
掠れた声が零れる。
「どうして信じてくれないの……私、嵌められたのに」
大学の頃から付き合ってきた。自分がどんな人間か、彼がいちばん知っているはずだった。あの夜のことも、何度も説明した。それでも――。
「信じない」
隆也は、あまりにもあっさりと言い切った。
綾音は目を閉じた。
――どうして、信じないの。あの頃は、愛してくれていたんじゃないの?
父に何かあった途端、彼は別人みたいに顔を変えた。たとえ私が傷を負ったからって、ここまで冷酷になれるもの?
……最初から、愛なんてなかったのか。
綾音は目を開け、氷のような眼差しで彼を見る。そして、胸の奥に沈めていた疑念を口にした。
「結婚する前に『好きだ』って言ったのは……私の身分が目当てだったから?」
隆也の陰った目が、彼女の蒼白さに触れる。今にも触れたら砕けそうなその脆さに、四年ぶりに一瞬だけ心が揺れたのか、彼は視線を逸らして淡々と言った。
「そんな話、今する意味があるのか。今いちばん大事なのは案件だ」
答えを避けた。逃げる目。
それだけで、綾音の中に結論が落ちた。
――答えられないのは、後ろめたいから。
本当に、彼は市長の娘だから近づき、結婚したのだ。
綾音は一歩下がり、俯いて笑った。
愛してる、命より大切だ、そんな誓いは全部嘘。最初から、騙しの芝居だった。
可笑しい。私はそれを信じて、いちばん私を愛してくれた父にまで逆らったのに。
笑っているのに、頬を涙が伝った。乱暴に拭い、綾音は顔を上げる。瞳の奥は、何も映していないみたいに冷たい。
「今夜の席、私は行かない」
言い捨てて踵を返し、扉へ向かう。ドアノブに手をかけたところで、動きを止めた。
「どれだけ頭が回っても、天まで計算はできないわ……結局、何も掴めない」
彼がどうしても自分を浮気者だと思いたいなら、そう思えばいい。
唇の端に、凍りついた笑みが浮かぶ。
綾音は静かに社長室を出た。もう、二度と耐えない。
父が事件に巻き込まれたのは、結婚式当日だった。市長の娘から、誰もが踏みつけにできる落ちぶれた娘へ。
きっとそれで、この四年、彼は遠慮なく私を傷つけてきたのだ。
そして彼が私に触れないのは、あの夜に私が汚れたからじゃない。
――愛していないから。
利用する価値しか見ていない。
なら、彼には自分が蒔いた種の結果を、きちんと味わってもらう。
北野隆也は苛立ちに任せて腕を振り、机の上の物を薙ぎ払った。ガシャガシャと音が散り、最後には革張りの椅子へどさりと沈み込む。
――こいつは、誰にでも踏まれる女じゃない。牙を持っていた。今さら、それを剥き出しにしただけだ。
だが牙があったところで、何ができる。どれほどの傷をつけられるというのか。
……
社長室を出たあと、綾音は長い時間をかけて呼吸を整えた。ようやく落ち着いたところで、親友に電話をかけ、部屋探しを手伝ってほしいと頼む。
江見瑠璃は、綾音がホテル暮らしだと知ると、まずは自分の家へ来いと言った。
綾音は断らなかった。部屋はすぐに見つかるものじゃないし、ホテルに居続けるのも現実的ではない。
その日一日、次にどう動くかを考え続けていた。気づけば退社時間になり、車で娘を迎えに幼稚園へ向かう。
「杏ちゃんのお母さま、杏ちゃんはお父さまがお迎えに来られましたよ」
園の門で子どもを探していると、先生が近づいてそう告げた。
綾音の胸が、ひゅっと鳴る。
――隆也が杏ちゃんを迎えに? あの人、娘の顔すら見たがらなかったのに。
先生に頭を下げ、車へ向かいながら隆也へ電話をかける。すぐに繋がった。
『娘はこっちで預かった。今夜の席を終えれば会わせてやる』
受話口から、脅すような冷たい声。
――やっぱり、そういうこと。
綾音はスマホを握り潰すほど力を込め、歯を食いしばって吐き捨てた。
「北野隆也……人でなしのクズ」
隆也は動じる気配もなく、ただ言う。
『七時に、栄尚の1313だ』
それだけ言って、通話は切れた。
道端に立ち尽くした綾音は、どうしようもなく心細く、茫然とスマホを握りしめた。
――これが、七年も愛した男。
どうして私は、ここまで目が見えなかったんだろう。
夜七時。
伊原綾音は料亭・栄尚の玄関をくぐった。上流の人間が宴席を張る、場馴れした空気の漂う場所。
1313号室の前で立ち止まり、スマホを耳に当てて隆也へかけ直す。
「着いたわ。入る前に……杏ちゃんの声を聞かせて」
そう言い終えるより早く、扉が開いた。
出てきたのは北野隆也だった。綾音はスマホを下ろして問う。
「杏ちゃんは?」
隆也は冷えた目で見下ろす。
「今夜、案件を取れたら会わせてやる」
綾音は悔しさに目の縁が赤くなる。
「……あなたがどれだけ残酷か、よくわかった」
隆也は感情の揺れすら見せない。
「案件より大事なものはない。感情はしまえ。中には重要人物がいる」
そう言い捨てて、彼は先に部屋へ入っていった。
ここまで来たら、どれほど憎くても、綾音は入るしかない。
襖をくぐった瞬間、男たちの下卑た笑い声が耳を刺した。綾音は拳を握り締める。こういう席がどういうものか、嫌というほど知っている。
「どんな風の吹き回しだ、伊原さん?」
甲高く、からかうような男の声が室内に響く。
声の主は石田海。何かにつけて身体を求めてきて、綾音が拒んでからは案件をちらつかせて引き延ばし、サインするとも、しないとも言わない男だ。
綾音が視線を上げた、その瞬間――身体が固まった。
石田海の隣に座る男。
――昨夜、ホテルで部屋を取ろうと迫ってきた、あの男だった。
