第3章 再会
男もまた、淡々と彼女を見返していた。右手の親指で、左の手首にはめた数珠ブレスレットをくるり、くるりと弄ぶ。切れ長の瞳は、喜怒のどちらにも傾かない。
あまりに唐突で、伊原綾音は表情を隠しきれなかった。目を見開いたその顔が周囲の目にさらされる。ここにいるのは食えない連中ばかりだ。状況を一瞬で飲み込む。
――この二人、知り合いだ。
とりわけ石田海は早かった。伊原綾音をつつくつもりだった空気をさっと引っ込め、立ち上がって手招きする。
「伊原さん、こっち座って」
伊原綾音は我に返り、ぎこちなく歩み寄った。こういうとき、どう振る舞えばいいのか分からない。今は、行けるところまで行くしかない。
もう会うことはないと思っていた。まさか翌日に顔を合わせるなんて。
彼女は男の隣に腰を下ろし、ちらりと卓を見回す。女性は自分ひとり。否応なく気まずさが押し寄せた。
気まずさを噛みしめる間もなく、酒席が始まる。伊原綾音が満たされたグラスへ手を伸ばせずにいると、耳元で低い声が落ちた。
「葉巻、つけられるか」
隣の男が、彼女に訊いた。
振り向くと、深い闇のような視線に絡め取られる。胸が、理由もなく跳ねた。伊原綾音は小さくうなずく。
「……できます」
男の長い指が、テーブルのシガーケース一式を彼女の前へ滑らせる。
「つけろ」
短く、鋭い。なのに逆らう余地がない。
伊原綾音は黙って道具を受け取り、葉巻を一本抜く。カッターで吸い口を落とし、専用のトーチを手に取った。葉巻を斜めに構え、炎の上でゆっくり回しながら火を移す。
手つきは十分に様になっていた。それを見た周囲は、伊原綾音に酒を強いるのを自然と控える。
「琉生さん、一杯。これから商売の場でも、ひとつ面倒見てくださいよ」
声を上げたのは石田海だ。
男は、半年前にS市へ戻り、澄川家の家督を継いだ澄川琉生。二十八歳にして、S市の頂点に立つ男。
先月には、S市を揺らした「313事件」があった。現場にいたのは琉生と死者の二人だけ――それでも証拠が示したのは、琉生こそが被害者で、死者側に全責任があるという結論だった。
しかもその死者は、S市の地元のボス。そんな相手ですらどうにもできない。つまり、そういう男だ。
琉生はグラスをつまみ、軽く合わせるだけで口をつけた。そして何でもない調子で訊く。
「新市街の工事、進みはどうだ」
「もうすぐです。図面が上がったら、まず琉生さんにご確認いただきます」
石田海は背筋を正して答えた。
その図面こそ、伊原綾音が担当している案件だ。だが契約はずっと宙に浮いたまま、まだ署名が降りていない。話が出た瞬間、彼女の耳は自然とそちらに向いた。
「急げ」
淡い声色の奥に、押し潰すような圧が混じる。
「はい」
伊原綾音の葉巻に火が入った。彼女は息を殺すように、柔らかい声で言う。
「つきました」
澄川琉生が顔を向ける。切れ長の目は、ただ見ているだけで人を追い詰める。伊原綾音は緊張しながら、火の入った葉巻を差し出した。
男が受け取る。その瞬間――わざとか偶然か、長い指が彼女の手にふわりと触れ、すぐに離れた。
かすめただけの接触が、ぞくりと痺れを呼ぶ。
伊原綾音は慌てて手を引き、耳元の髪を整えるふりをした。痺れの衝撃を、何とか散らしたかった。
葉巻を挟んだまま、琉生はその様子を見ている。視線だけで頭皮がじわりと痛む。そこへ、バッグの中のスマホが鳴った。伊原綾音は咄嗟に顔を背け、視線から逃げる。
渡りに船だ。彼女はスマホを手に席を立ち、外で出ることにした。
電話は江見瑠璃からだった。どうしてまだ引っ越してこないのか、と。伊原綾音は北野隆也のやったことを簡単に伝える。
江見瑠璃は怒鳴るように罵り、「今から行って子ども探す」と息巻いた。
「大丈夫。私がやれる」
「なら、気をつけて。無理ならすぐ電話して」
長話はしなかった。二、三言で切れ、通話を終える。
伊原綾音は窓の外の夜景を見つめた。頭の中で、さっきの石田海と男の会話が反芻される。
――このプロジェクトのボス、あの人だ。
どう切り出すべきだろう。
さっきの感じだと、あの男は彼女をあからさまに拒んではいない。むしろ、その曖昧な態度のおかげで石田海も彼女を強く出られなかった。なら、それを利用できるかもしれない。
考えがまとまって部屋へ戻ろうとした、そのとき。
振り向いた先に、葉巻を手にした男がいた。少し離れた場所でスマホを握り、背を向けて通話している。
伊原綾音は足を止める。男が通話を切ったのを見てから、歩き出し、すれ違いざまに立ち止まって顔を向けた。
「はじめまして。伊原綾音と申します」
名乗るべきだと思った。礼を欠きたくない。
男は目を細め、葉巻を一口吸う。薄い煙をふっと吐き出し、含みのある言葉を落とした。
「誘いか」
伊原綾音は一瞬固まって、すぐに意味を理解した。前回、ホテルで何も起きなかった。そのうえで今日ここにいる。誤解されても仕方ない。
「違います」視線を落とし、小さく否定する。
男は軽く嘲るように笑い、懐から一本のブレスレットを取り出して揺らした。
「誤解? じゃあ、これをわざと置いていったのは何だ」
伊原綾音は目を上げ、宙で揺れるそれを見て息を呑む。あれはホテルに落としたはず。
「……あなたのところにあるなんて、知りませんでした」
彼女は言い訳の形で答えた。
男はくつくつと笑う。鋭い眼差しに感情は読めないまま、ブレスレットを彼女の手へ放る。
「拒んでるふりも、度が過ぎれば冷める」
それだけ言い残し、男は背を向けた。
伊原綾音は手の中の鎖を見つめ、不安が胸に差し込む。拒まれたと思って、怒ったのだろうか。
落ち着かないまま個室へ戻る。さっきの席に座ろうとした瞬間、男が陰のある声で言った。
「石田海。俺のルール、他人は知らなくても、お前まで知らないのか」
伊原綾音はその場で凍りつく。切れ長の目に宿る殺気。自分に向けられたものだと分かった。
石田海は突然の展開に面食らった。ルール? 何の話だ。
実は以前から、表に出ない噂があった。澄川琉生の席には女を入れるな――その不文律は、彼が常に身につけている数珠ブレスレットと関係している、と。
ただ真偽は定かじゃない。琉生がS市に現れてまだ半年、接点がある者も少ない。だが情報通の一人が恐る恐る口を挟む。
「琉生さんの席って……女はダメ、って話、ありませんでしたっけ」
一同が顔を見合わせる。確かにそんな話を聞いたことがある、という空気が広がり、視線が伊原綾音へ集まった。
この部屋に女はひとり。
さっきまでは、あの女と意味ありげにやり取りしていたくせに――なぜ今さら。
周囲は理解できない。けれど伊原綾音だけは分かった。悔しさに唇を噛む。男の方を見るが、琉生は彼女を見ない。
「琉生さん、俺の不手際です。すぐ外に出します」
石田海は場を取り繕い、伊原綾音へ「早く行け」と手で合図した。
彼女は何も言わず、バッグを取りに戻って立ち去ろうとする。
「俺のルールを破っておいて、出ていくつもりか」
軽くも重くもない声が、伊原綾音の足を止めた。部屋の半ばで振り返り、澄川琉生を睨むように見る。
――何がしたいの。
誰も息ができない。そんな空気の中で口を開ける者はいない。伊原綾音は唇を噛み、腹を括って頭を下げる。
「申し訳ありません。そういうお決まりがあると存じ上げませんでした。ここでお詫びいたします」
澄川琉生は椅子に深く凭れ、切れ長の目で伊原綾音を真っすぐ見据えた。
その表情は、どこまでも意味深だった。
