第4章 彼の罰

「人を呼んだのはお前か?」

 彼は石田海にそう尋ねた。

 今夜、石田海は澄川琉生を食事に誘っていた。関係を取り持つのが表向きの目的で、ついでに伊原綾音も落とそうとこの場へ呼びつけたのだ。だが、まさか澄川琉生の癇に障るとは思っていなかった。

 石田海は澄川琉生がどう動く男かをよく知っている。ここで認めれば、自分から火の中へ飛び込むようなものだ。すぐさま否定した。

「違います。最近、彼女が俺を追い回してましてね。今夜ここで席があると知って、勝手に来たんです」

 伊原綾音は言い返せなかった。たしかに、自分から来たのは事実だ。ただし、男を追ってきたわけではない。目当ては案件だった。

「そうか?」

 男は伊原綾音を見た。明らかに、彼女へ向けた問いだった。

 視線を返す。

 その昏い目の奥には、底知れないものが沈んでいる。

 この流れでは、この罪をかぶるしかないのだろうか。

 強く握っていた拳を、彼女はそっとほどいた。観念したように口を開く。

「最近、石田社長の案件を追っていたのは事実です。一か月以上話を詰めているのに、まだ契約に至っていなくて……会社からもずっと急かされています。ですから、どうしても強めに追うしかありませんでした。私には養わなければならない子供もいます。この仕事を失うわけにはいかないんです」

 男を追っている――そんな曖昧な話は、契約を追っているという意味へすり替えられた。

 しかも、自分が母親であることまで明かし、誰かを誘いに来たわけではないと、はっきり線を引いた。

 個室の空気が変わる。

 澄川琉生だけは無表情のままだったが、それ以外の面々はみな驚きを隠せなかった。

 子供を産んでいたのか――。

 こういう金持ち連中の目には、結婚歴があり、子供までいる女は、いったん誰かに袖を通された服のように映る。伊原綾音がどれほど息を呑む美貌の持ち主でも、それだけで値踏みは下がる。

「そういうことか?」

 しばらくしてから、澄川琉生は石田海へ視線を移した。眼差しの圧は、相変わらず重い。

 石田海はようやく驚きから立ち直り、うやうやしく頷く。

「ええ、たしかに案件の話は進めていました。ですが、まだ検討中でして」

 澄川琉生は鼻で笑った。

「お前の見る目は相変わらずらしいな。これだけ長く考えて、選ぶのがその程度か」

 その一言で、石田海は彼の意図を悟った。すぐに調子を合わせる。

「たしかに理想的とは言えません。ですので、契約は見送るつもりです」

 伊原綾音は、どういう気持ちでいればいいのかわからなかった。

 この案件を本気で取りたかったわけではない。けれど、こんなやり方で叩き潰されるのは、やはり堪えた。

 彼を拒んだ――その報いで、仕事を消されたのだ。

 もう食い下がる気にはなれない。

「今後はもう、石田社長のお邪魔はいたしません」

 そう言ってから、彼女は澄川琉生を見た。

 これが、彼の機嫌を損ねた罰なのだろうか。

「では、失礼してもよろしいでしょうか」

 探るような、形式だけの確認だった。

 澄川琉生は目を上げて彼女を見た。声もまた、その眼差しと同じく冷えきっている。

「出ていけ」

 やはりそうだ。

 彼への拒絶の代償が、この契約だった。

 誰も責められない。

 そもそも、自分から関わってしまったのだから。

 複雑な思いを抱えたまま、伊原綾音は個室を出た。すぐにスマホを取り出し、北野隆也へ慌ててメッセージを送る。

 子供はどこにいるのか、と。

 子供は四年前、心ならずも関係を持ったあと、北野隆也に迫られて産まされた子だった。

 三十秒待っても返事はない。

 彼女はそのまま、脅すようにもう一文送る。

『あなたの部屋まで行かせないで』

 さっきの空気を思えば、それがどれだけ危ういか、彼女にはよくわかっていた。

 自分のせいで北野隆也まで巻き込み、会社にさらに大きな損害を出させるわけにはいかない。

 もし自分がもう一度あの場に現れたら、何が起きるかわからない。

 案の定、一分も経たないうちに部屋番号が送られてきた。

 伊原綾音は足早にその部屋へ向かった。だが、個室に着いても子供の姿はない。青ざめながら北野隆也へ電話をかける。

「杏ちゃんがいないの」

「そこに置いといた。仲居にでも聞け」

 北野隆也は苛立った声を残し、そのまま電話を切った。

 他に手はない。伊原綾音は料亭・栄尚の係に聞いて回った。すると、少し前まではたしかにその個室にいたことがわかった。今は見当たらない。おそらく、こっそり抜け出したのだろう。

 彼女は休む間もなく探し始めた。

 そのころ、当の杏ちゃんは小さなリュックを背負い、棒付きキャンディをくわえたまま、短い足で廊下をとことこと歩いていた。

 一つの個室の前を通るたび、扉をきゅっとひねって開け、二つ結びの頭をひょいと差し入れて中をのぞく。

 伊原綾音がいないとわかると、また扉を閉め、次の部屋へ。

 曲がり角に差しかかった、そのときだった。

 どん、と何かにぶつかる。

 小さな体が後ろへ弾かれ、そのまま尻もちをついた。

「いたぁ……」

 声と一緒に、小さな手に握っていたキャンディも床へ転がる。

 杏ちゃんは名残惜しそうに落ちた飴を見つめ、それから顔を上げた。

 目の前にいたのは、とても、とても背の高い、けれどひどく冷たい雰囲気の人。

 ぶつかったのはこの人のくせに、どうしてこの人のほうが不機嫌そうなの――。

「ぶつかったのそっちなのに。わたしのキャンディ、だめになっちゃった……」

 もちもちとした幼い声なのに、ちゃんと怒っている。小さくても気の強さがにじむ言い方だった。

 杏ちゃんを突き飛ばす形になった相手は、澄川琉生だった。

 彼は天使のような幼い少女を見下ろし、ほんの一瞬、動きを止めた。

 後ろに控えていた護衛があわてて駆け寄る。床に座り込む小さな女の子を見て、その護衛も一瞬だけ目を見張ったが、すぐ手を差し伸べた。

「さわらないで」

 杏ちゃんは両腕をぎゅっと抱き込み、黒々とした大きな目で警戒するように睨んだ。

 澄川琉生は我に返り、護衛を下がらせる。そして自分でしゃがみ込み、杏ちゃんと目の高さを合わせた。

「一本弁償する。立てるか」

 弁償すると聞いて、杏ちゃんの怒りは少しやわらいだ。ぱちぱちと大きな目を瞬かせ、甘えるような声で言う。

「おしり、いたいの」

 澄川琉生は怪我をしたのかと思った。

「打ったのか?」

 杏ちゃんはこくんと頷いた。唇をきゅっと結び、相手がどんな反応をするのか、じっと観察している。

「親は?」

「ママが見つからないの。でも、おでんわしてくれたらいいよ。ころんだって言って」

 いいことを思いついた、とでも言いたげに、杏ちゃんは素直に電話番号を読み上げた。

 澄川琉生は護衛にその番号へかけさせる。

 そのころ伊原綾音は、防犯カメラの映像を確認していた。そこへ見知らぬ番号から電話が入る。相手の話を聞いた途端、彼女は監視室を飛び出した。

 駆けつけた先で、尻をさすっている杏ちゃんの姿を見つけると、伊原綾音はその場にしゃがみ込み、強く抱きしめた。

「杏ちゃん……」

 張りつめていた心が、ようやく少しだけ落ち着く。

 もう二度と、北野隆也にこの子を連れて行かせはしない。

 この結婚にも、きちんと終わりをつけるべきだ。

「ママ……ずっと、ずっとさがしたんだよぉ……」

 伊原綾音の匂いを感じた途端、杏ちゃんは両腕をぱっと彼女の首に回した。甘えるように、拗ねるように、その頬へぴたりと顔を寄せる。

 伊原綾音は胸を鷲づかみにされたように苦しくなり、あやすように囁いた。

「もう大丈夫。これからは、こんなことさせないから」

 しばらく母娘で抱き合ってから、伊原綾音は腕の中の杏ちゃんを少し離し、怪我がないか確かめた。電話では転んだと聞いていたからだ。

 杏ちゃんは幼い声で答える。

「けがしてないよ」

 そう言って顔を上げ、少し離れたところに立つ澄川琉生を見つけた。

「おじさん、キャンディくれるって言ったよ!」

 電話を終えた澄川琉生は、抱き合う母娘をしばらく眺めてから、ゆっくりこちらへ歩いてきた。

「いいだろう」

 もともと背を向けていた伊原綾音は、その声に反応して振り返る。

 次の瞬間、全身がこわばった。

 どうして、彼がここに――。

 あの、ホテルへ行こうとしてきた男。

 杏ちゃんはそんなことなど気にもせず、いつキャンディをくれるのかとせがむ。

 澄川琉生は二歩ほど離れた位置で足を止めた。伊原綾音など目に入っていないかのように、杏ちゃんへ答える。

「今から取りに行くぞ」

 それは杏ちゃんの望むところだった。ぱっと嬉しそうな顔になり、伊原綾音の手を握る。

「ママもいっしょ。キャンディもらいにいくの」

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