第5章 私たち、離婚しましょう
伊原綾音ははっと我に返り、立ち上がった。さっきの一件がまだ生々しく頭に残っている。杏ちゃんに「ペロペロキャンディの弁償を」と追いかけさせるなんて、とてもじゃないができない。表情だけはいつも通りに整え、よそよそしいほど丁寧に言った。
「どうかお気になさらないでください」
澄川琉生はわずかに目を沈ませ、彼女を見た。何でもないことのような口調で問う。
「弁償は要らないのか?」
伊原綾音が口を開きかけた、そのときだった。杏ちゃんがきっぱりと言い張る。
「いるよ」
伊原綾音は眉を寄せ、小声でかわいい娘をなだめた。帰ったら飴を買ってあげるから――けれど、杏ちゃんには杏ちゃんなりの筋がある。
「ママが買うのはママが買うの。弁償は弁償だよ」
伊原綾音が気まずさに言葉を失っていると、澄川琉生が淡々とひと言だけ落とした。
「また今度、返す」
「じゃあ電話番号、教えて。忘れたら、わたしが言うから」
杏ちゃんは大きな目をぱちぱちさせる。本気で取り立てるつもりらしい。
たぶん、こんなふうに迫られたことなど一度もないのだろう。澄川琉生は居心地悪そうに目を細めた。それを見た伊原綾音は、慌てて言い添える。
「子供でして、加減がわからないんです……」
澄川琉生が携帯番号を告げ終えると、伊原綾音が複雑そうな顔で立ち尽くしているのを見て、不機嫌そうに言った。
「メモしたのか?」
「したよ」
答えたのは杏ちゃんだった。
そのあと杏ちゃんに急かされ、伊原綾音はしぶしぶスマホを取り出し、数字をひとつずつ打ち込んで発信する。澄川琉生の身につけているスマホから着信音が鳴ったのを確認して、ようやく杏ちゃんは満足した。
けたたましく鳴るスマホを手にした澄川琉生は、杏ちゃんをまっすぐ見つめていた。切れ長の目に、隠しきれない驚きが浮かんでいる。
伊原綾音はひどく気まずかったが、彼が怒っている様子ではないとわかり、そっと息をついた。
だが、その安堵も一瞬だった。
次に澄川琉生が彼女へ向けた視線は、鋭い。何かを疑うような眼差しだった。
誤解されたくない。子供のしたことだと説明しようと、伊原綾音が口を開きかけた瞬間――彼は淡々と視線を外し、そのまま踵を返した。残されたのは、冷ややかで近寄りがたい背中だけ。
「……」
「おじさん、ばいばーい」
杏ちゃんはうれしそうに小さな手を振った。
澄川琉生は料亭・栄尚の門を出ると、表に停まっていたベントレーに乗り込んだ。車が走り出し、その後ろには黒塗りの護衛車が二台。ずらりと列をなし、威圧感をまとって去っていく。
「琉生さん、あの子、聞いたことを一度で覚えるんですね。あなたに似てる。妙な縁を感じますよ」
傍らで千成がしみじみと言った。
千成は澄川琉生の影のような存在だ。澄川琉生のいる場所には、いつも彼がいる。
目を閉じていた澄川琉生は、ゆっくりと瞼を開けた。脳裏に浮かぶのは、あの小さな女の子の顔と、ころころ変わる表情、そしてあの物言い。深い瞳の奥は、何を考えているのか読めない。
一方そのころ、伊原綾音はスマホの画面に表示された番号を見つめ、消すべきかどうか迷っていた。
「ママ、その番号、消しちゃだめだよ。ちゃんとキャンディ返してもらったら、そのとき消すから」
隣で杏ちゃんが、母の心を見透かしたように念を押す。甘ったるい幼い声だった。
「あなた、もう覚えたでしょ。保存しておいても容量の無駄よ」
杏ちゃんには人並み外れた記憶力がある。一度見たものは、まず忘れない。
「でも、残しておいたほうが安心だもん」
そう言って、かわいい娘は伊原綾音の手をきゅっと握った。
「ママ、帰ろう」
結局、伊原綾音はその番号を消さずに残したまま、杏ちゃんの手を引いて料亭・栄尚をあとにした。ホテルに預けてある荷物を取り、江見瑠璃の家へ向かうために。
翌日――雲峰グループ。
伊原綾音は離婚届ではなく、離婚協議書を手に北野隆也のもとを訪れた。もう、この結婚を続ける意味はない。
この二日間で起きたことを経て、北野隆也のために尽くす価値など、きれいさっぱり消えていた。
彼女が協議書を差し出すと、北野隆也は目も向けず、鼻で笑うように言った。
「お前に離婚なんてできるのか?」
伊原綾音は彼の目に宿る侮りを無視し、波ひとつ立たない声で書類を指した。
「内容を確認してください。問題がなければ、すぐ市役所で手続きをしましょう」
一刻たりとも引き延ばしたくなかった。
伊原綾音の決意が思った以上に固いとわかると、北野隆也の顔色は冷え切った。
「離婚は、お前ひとりで決められることじゃない」
伊原綾音の表情はぴくりとも動かない。黒い瞳でまっすぐ彼を見据える。
「それとも、別れたくないんですか?」
北野隆也は冷えた顔のまま、嫌悪を隠そうともせず言い放った。
「何を惜しむ必要がある? 会社の役に立ってたから置いてやっただけだ。でなきゃ、とっくに終わってる」
予想はしていた。していたけれど、本人の口から聞かされれば、やはり痛い。
彼女が他人の子を身ごもったあとも、北野隆也が離婚を口にしなかったのは、まだ利用価値があったからだ。元市長令嬢という肩書きもあり、立ち上げたばかりの会社に、彼女は実際いくつもの案件を引っ張ってきた。
伊原綾音は唇の端をわずかに吊り上げ、冷たく笑った。
「惜しくないなら、今ここで離婚してもあなたに損はないはずです。会社はもう軌道に乗っている。私たちの関係を知る人もまだ多くない。今のうちに分かれたほうが、都合がいいんじゃないですか?」
北野隆也は険しい顔のまま黙り込み、やがて一分ほどして答えを出した。
「いいだろう。その代わり、お前は手ぶらで出ていけ」
伊原綾音は最初からそう来るとわかっていた。鼻先で笑う。
「会社を立ち上げたのは結婚前でも、この四年間、案件を取ってきたのはほとんど私です。今の規模まで育ったのは、その積み重ねがあったからでしょう。利用するだけ利用して、用済みになったら追い出す――そんな都合のいい話、通ると思わないでください」
北野隆也は冷笑した。
「裁判になったらどうなると思う? 婚姻中に他人の子を産んだ女が、どれだけ有利に立てる?」
その言葉で、伊原綾音はすべてを悟った。
あのとき彼が意地でも子供を産ませたのは、この日のためだったのだ。
罪悪感につけ込み、人脈を使わせ、案件を取らせる。会社が大きくなったところで、今度は彼女だけ切り捨てる。
父が言っていた。「あの男はやめておけ、良い相手じゃない」と。あれは、彼の野心を見抜いていたからだ。
見えていなかったのは、自分だけ。
伊原綾音はひとつ、短く笑った。もう静かな水面のような態度ではいない。声音に硬さが宿る。
「会社をここまで持ってこられたのが私なら、潰すことだってできます。信じられないなら、試してみればいい」
「脅してるのか?」
北野隆也は机を叩き、立ち上がった。
伊原綾音の目は氷のように冷たい。少しも引かない。
「忠告です。本気で徹底的にやるつもりなら、私だって黙ってはいません」
今の伊原綾音には、かつての柔らかさも従順さもなかった。
「私が求めるのは、会社の株式40%だけです。考える時間は二日、差し上げます」
返事を待たず、彼女は背を向けて社長室を出た。
去っていく後ろ姿を見つめながら、北野隆也は目を細める。まさか、あの女がここまで強く出るとは。ならば、自分も容赦はしないまでだ。
伊原綾音は北野隆也のオフィスを出るとすぐ、杏ちゃんの担任に電話を入れた。迎えに来ても、彼女本人以外には子供を引き渡さないでほしい、と。夫と離婚手続き中であることも、きちんと伝える。
相手も女性教師だ。事情の重さはすぐに理解してくれた。
話をつけ終えて、ようやく伊原綾音は少しだけ胸をなで下ろし、目の前の仕事に取りかかった。
だが、終業間際になって、北野隆也から連絡が入る。今夜七時、石田海と契約を結ぶ。場所はシーズンホテルだ、と。
昨日は流れたと言っていなかったか。なのに、また石田海との契約に自分を行かせるという。
怪しい――そう思うには十分だった。
「その案件は、もう担当しません。他のデザイナーに回してください。歩合も要りません」
受話器を握りしめたまま、伊原綾音ははっきりと言った。
「本気で離婚したいなら、まずその案件を取ってこい」
北野隆也は歯を食いしばるように言った。怒りを押し殺しているのが、声の端々から伝わってきた。
