第6章 代償

伊原綾音は頭の中で高速に状況を組み立てた。――つまり、この案件と引き換えに離婚したいってこと?

「この案件を取れたら、離婚の条件は話し合ってやる」

「どう信じろっていうの」彼は彼女の中では、とっくに信用を失っている。

「信じる信じないは勝手にしろ。ただし案件を取れないなら、離婚条件の話なんて一切なしだ」

伊原綾音は眉をひそめ、二秒考えてから頷いた。

「分かった。契約、取りに行く。さっきの言葉、忘れないで」

通話を切ると、伊原綾音はバッグを掴んで会社を出た。車を走らせ、幼稚園へ杏ちゃんを迎えに行く。

杏ちゃんを連れて帰宅し、夕食を作り、かわいい子を落ち着かせてから、江見瑠璃に契約へ行くことを話した。さらに「契約を取れば離婚の条件を話せる」という件も一緒に伝えると、江見瑠璃は北野隆也が何か仕掛けてくるのではと心配し、同行を申し出た。杏ちゃんを一人にできないため、結局三人で向かうことになる。

江見瑠璃は杏ちゃんを連れて別室で待機。伊原綾音は石田海のもとへ契約に行った。

伊原綾音が部屋をノックすると、扉を開けたのは石田海だった。バッグを手に中へ入った瞬間、背後で扉が「ピッ……」と音を立てて閉まる。

閉じた扉をちらりと見たものの、何も言わずに部屋の中央まで歩き、契約書を取り出して石田海へ差し出した。

「石田社長、契約書をご確認ください。問題がなければ、このまま締結で」

石田海は受け取らず、淡々と言った。

「伊原さん、急ぐなよ。俺と一杯やれば、契約なんて問題ない」

石田海は部屋の中央のローテーブルへ向かい、酒瓶を手に取ってグラスへ注ぎ始める。視線は伊原綾音から外れない。獲物を見つけた狼の目だった。

注ぎ終えると、石田海は両手に一杯ずつ持って戻ってきた。伊原綾音の手に酒を押し、彼女が契約書を差し出すと、それを受け取った――かと思えば、ローテーブルに投げるように置いた。

「まずは一杯だ」

伊原綾音はグラスを持ったまま、探るように問う。

「石田社長。あの夜、もう契約しないって言ってましたよね。どうして気が変わったんですか?」

石田海はグラスを軽く掲げた。

「あの夜、お前が俺の責任を被ってくれた。埋め合わせだよ」

――信じるはずがない。

石田海の手が彼女の肩に触れかけた、そのとき。バッグの中でスマホが鳴った。伊原綾音は体を傾け、触れられるのをすり抜ける。

「すみません、電話に出ます」

彼女はスマホを取り出し、石田海の目の前で通話に出た。

「うん。ママ、今から電話するから。いい子で待っててね」

通話を切ると、伊原綾音は笑顔を貼り付け、石田海に言う。

「もう一本だけ、かけますね」

石田海は反対せず、早く済ませろとでも言うように顎をしゃくった。酒を持ったままベッドのほうへ歩いていく途中、伊原綾音の声が聞こえた。

「澄川さん、伊原綾音です。杏ちゃんが、飴を欲しがってて」

その男の素性は、伊原綾音が後で調べた。S市の澄川琉生――筋金入りの大物。

石田海は眉をひそめる。澄川さん? 誰だ――と思っていると、伊原綾音が続けた。

「分かりました。今から伺います」

電話を切った伊原綾音は申し訳なさそうに頭を下げた。

「石田社長、少しだけ待ってください。子どもを連れて、先に澄川琉生のところへ行かないと……泣き止まないので」

ベッド脇で立ち止まっていた石田海は聞き間違いかと思い、眉間に皺を寄せた。

「……誰だって?」

伊原綾音がもう一度言うと、石田海は彼女が澄川琉生の名を盾にして逃げるつもりだと判断し、冷えた声で言った。

「外で澄川琉生の名前を使ったら、どんな目に遭うか分かってるのか?」

伊原綾音は二歩前に出て、通話履歴の画面を彼の目の前に突き出す。

「本人の、プライベート番号です」

石田海は澄川琉生の番号など持っていない。それでも、その番号をしっかり記憶した。

伊原綾音と澄川琉生の関係が読めない。石田海は軽々しく動けず、伊原綾音に「先に用事を済ませろ」と渋々許可を出した。彼女が出て行くと、すぐ部下に澄川琉生の番号確認を命じる。

伊原綾音は子どもを待たせている部屋へ戻り、江見瑠璃に杏ちゃんを連れて澄川琉生のところへ行ってほしいと頼んだ。澄川琉生はちょうどシーズンホテルにいるらしい。

江見瑠璃が杏ちゃんの手を引いて澄川琉生の部屋の前に立つ。扉が開き、澄川琉生が姿を見せた瞬間、杏ちゃんは小さな口をにっと広げ、甘い声で呼んだ。

「おじさん……」

澄川琉生の視線が杏ちゃんへ落ちる。長い髪を下ろし、ワンピースにピンクの靴。人形みたいに整った顔立ちで、黒い大きな瞳が瞬きもせず彼を見つめていた。

澄川琉生は柔らかな声で訊いた。

「どうしてこんな遅くに飴が欲しいんだ?」

「んー……おじさんに会いたかったの……ついでに飴も」杏ちゃんは口の達者さで笑う。

来る前にママから「聞かれたら飴が食べたいって言うのよ」と言われていた。でも本当は、会いたかった。

澄川琉生は口元だけを上げ、杏ちゃんの背後に立つ江見瑠璃へ一瞬だけ視線をやる。彼女の驚愕を丸ごと無視して、すぐ杏ちゃんに戻した。

「お母さんは来てないのか?」

「ママ、契約しに行ってる」杏ちゃんはこくこくと頷く。

「お母さんはすぐ戻るんですけど、待つのが心配で……それで私が連れてきました」江見瑠璃は我に返って慌てて説明した。

――それにしても、何この人。とんでもなく格好いい。

「おじさん、ここで何してるの?」杏ちゃんが突然聞く。

「接待だよ」澄川琉生は杏ちゃんを見下ろす。「飴は買いに行かせた。少し待つ。隣の部屋で待っていろ」

杏ちゃんは素直に頷く。

「おじさん、ママに電話して。仕事終わったら、ここに迎えに来てって」

江見瑠璃は杏ちゃんを連れて隣室へ移動し、そこで待つことにした。

しばらくして千成が飴を買って戻ってきた。澄川琉生は受け取ると、伊原綾音が今夜どこで契約を結ぼうとしているのか調べるよう命じた。

……

伊原綾音は子どもを上げたあと、時間を見計らって石田海の部屋へ戻った。

「石田社長、申し訳ありません。お待たせしました」

歉意を装いながら、石田海の表情を探る。

石田海は陰気な目で彼女を見据え、唐突に問うた。

「お前、澄川琉生とどういう関係だ?」

――もう信じた、ということだ。

伊原綾音は静かに答える。

「知り合いです。でも……深い関係ってほどではありません」

石田海は納得していない。ついさっき千成に裏を取ったのだ。彼女のスマホに表示されていた番号は、確かに澄川琉生のものだった。

自分ですら手に入れられない私用番号を、関係が浅い女が持てるはずがない。

あの夜、最初は琉生さんの隣に座るのを許された。だが一度席を外して戻った途端、態度が変わった。外で何かやらかして怒らせたのか?

それにしても、澄川琉生の周りに女がいるなんて話、聞いたことがない。しかも既婚の女――そういう趣味なのか?

伊原綾音は話を切り替える。

「石田社長。契約、いつサインいただけますか?」

石田海はローテーブル脇の椅子に腰を下ろし、目だけを暗く光らせる。

「急ぐなよ」

「澄川さんが子どもを見てくれてるんです。あまり待たせられません」

澄川琉生の名をもう一度出すと、石田海は顔を上げて薄く笑った。

「琉生さんクラスの人間が、関係のない女の子どもを面倒見ると思うか?」

要するに、関係を吐かせたいのだ。

――何か渡さないと、契約は取れない。

そのとき、チャイムが鳴った。

石田海は数秒固まり、やがて立ち上がって扉へ向かった。

ドアを開け、立っている人物を見た瞬間、笑顔を作る。

「千成さん。どうしてこちらに?」

千成は答えずに聞き返した。

「伊原さんは?」

「中にいる」

「契約は、もう締結したのか?」

物音に気づいた伊原綾音が近づいてくる。千成の姿に目を見開く。――どうしてここに? 私の小細工、気づかれた?

石田海は伊原綾音を一瞥し、問う。

「伊原さん、契約はサインしていいのか?」

伊原綾音は二秒沈黙し、言葉を選んだ。

「石田社長。それは……社長次第です」

石田海が動かない。すると千成が淡々と刺した。

「石田社長。たかが契約一本で、そんなに迷うのは……何か別の思惑でも?」

石田海はその含みを理解し、顔色を変える。

「琉生さんのところの人間に、そんな恐れ多い真似、できるわけがない。今、サインする」

こうして伊原綾音は石田海から契約を勝ち取った。

――だが彼女はまだ知らない。契約よりもずっと、受け止めきれないものが、澄川琉生として待っていることを。

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