第3章
胃洗浄の激痛の中、私は意識を取り戻した。
喉はまるでナイフで抉られたように痛み、胃の中は空っぽで、不快な虚無感だけが残っている。
病室の外から、黒木琉生の声が聞こえてきた。
「美月、安心してくれ。子供は無事だ」
その声は、私に向けられたことのないほど甘く、優しかった。
「医者の話ではただのアレルギー反応だそうだ。処置はもう済んでいる」
「琉生……」
妹、小林美月の甘えるような声が続く。
「食物アレルギーって遺伝するんでしょう? でも私、海老アレルギーなんてないのに……もし生まれてくる子がアレルギー持ちだったらどうするの?」
「姉さんに脱感作療法を受けさせるんだ。この子に何かあっては困る。私が天野家で実権を握れるかどうかは、全てこの子にかかっているんだから」
「分かった、明日すぐに手配しよう」黒木琉生は即答した。「入院させて、徹底的に治療を受けさせる」
私は目を閉じ、枕を涙で濡らした。
脱感作療法――それは想像を絶する拷問だった。
毎朝八時、看護師が海老の入った皿を運んできて、無理やり私の口に押し込む。
そしてアナフィラキシーショック、意識を失い、胃洗浄を受けた。
来る日も来る日も、その繰り返し。
最初こそ黒木琉生も見舞いに来ていたが、足は次第に遠のいていった。
代わりに私の心を蝕んだのは、小林美月がSNSに投稿する写真の数々だ。
スキー場での自撮り。満面の笑みを浮かべる彼女の後ろで、黒木琉生が甲斐甲斐しくマフラーを直してあげている。
ブランドの紙袋の山。「琉生ってば最高。何でも買ってくれるんだもん」というコメント付きだ。
何より目に焼き付いたのは、彼女の首元で輝くネックレス。
それはかつて、黒木琉生が私に贈るオーダーメイドだと言っていたものだった。
スマートフォンの画面を見つめながら、思う。アレルゲンと一緒に、黒木琉生への愛情も私の心から「取り除かれて」消えていくようだ。
このまま病院という名の牢獄で飼い殺しにされるわけにはいかない。絶対にここを出なければ。
黒木琉生が姿を見せなくなって、どれくらい経っただろう。
ある日の回診中、一人の医師がこっそりと紙切れを渡してきた。
「ここを出たいなら、私が協力します」
心臓が早鐘を打つ。
罠だろうか?
それとも……本当に私を助けてくれる人がいるの?
信じるべき?
答えは決まっている。信じるしかない。
私は、それほどまでにここから逃げ出したかった。
その日の深夜、私はメモの指示通りに黒木琉生の部下の目を盗み、病院を抜け出した。
裏口には医師の車が停まっていた。彼は手招きする。
「早く乗って!」
助手席に滑り込んだ瞬間、濡れたタオルが口と鼻を覆った。
強烈な薬品の臭いが鼻腔を貫いた。
必死に抵抗したが、力は急速に失われていく。
視界が暗転し、私は意識の底へと沈んだ。
目を覚ますと、そこは古びた倉庫の中だった。
頭が割れるように痛く、手足に力が入らない。
指先を動かしてみる。ポケットの中のスマートフォンは無事だった。
背を向けた小原医師が、声を潜めて誰かと電話している。
私はそっとスマホをポケットの奥へ押し込み、まだ意識がないふりをして目を閉じた。
「小林さん、あの女は連れ出しましたよ。金は?」
小原の声には焦りが滲んでいた。
電話の向こうから、小林美月の気怠げな声が漏れ聞こえる。
「気が変わったわ。その女、殺しちゃって」
「正気か?!」小原の声が裏返る。「名目上とはいえ、彼女は黒木琉生の女だぞ! 殺したりしたら、俺は黒木琉生に八つ裂きにされる!」
「じゃあ、上手く処理してよ。後で報酬は弾むから」
「小林さん、俺を馬鹿にするな! 話が違う。連れ出すだけで五百万という約束だったはずだ! 殺しまで請け負うなら、そんな金額じゃ割に合わん!」
「いくら欲しいの?」
「最低でも一千万だ! それも前金で!」
数秒の沈黙の後、美月の冷ややかな嘲笑が響く。
「小原先生、私と取引するつもり?」
「当たり前だ! 忘れたとは言わせないぞ。俺があの時お前の胎記を偽造してやらなかったら、黒木琉生が本当にお前を命の恩人だと信じ込んでたと思うか?!」
全身が震えた。
数年前、両親と美月と行った豪華客船でのクルーズ旅行。
ダンスパーティーのために着替えようと部屋に戻り、クローゼットを開けた時のことだ。
そこには血まみれの男がうずくまっていた。傷口からは鮮血が滲んでいる。
悲鳴を上げようとした私の口を、男の手が塞いだ。「静かに。少しの間隠れているだけだ。迷惑はかけない」
その手は冷たく、瞳には警告と懇願の色が混じっていた。
その時、ドアが開いた。
入ってきた美月は、その光景を見て眉をひそめた。
「何その薄汚い男。早く海に捨ててきなさいよ」
私は小声で反論する。「駄目よ」
「チッ、相変わらずお人好しなんだから。早くしなよ、パーティーが始まるわよ」
彼女は興味なさげに背を向けて出て行った。
私は黙って男の手を退け、クローゼットを閉めた。
着替えを済ませた後、私はルームサービスから救急箱と軽食を調達し、クローゼットの前に置いた。
「これ、使って」
小声でそう告げて。
パーティーから戻ると、救急箱と食事には手が付けられており、男の姿は消えていた。
半年後、美月に誘われた登山。
彼女は崖際で、不意に私の背中を突き飛ばした。
私は転がり落ち、岩に体を打ち付けた。
目が覚めた時、私の腰にあった蝶の形のあざは、抉り取られてなくなっていた。
そうか……。
全ての謎が解けた。
あの男は黒木琉生だったのだ。美月はそれに気づき、私のあざを切り取る口実を作るために私を突き落とし、自分にあざを偽装したのだ。
彼女は、黒木琉生の「命の恩人」になりすましたのだ。
「あら、言われるまで忘れてたわ」美月は言った。「思い出させてくれてありがとう、小原先生」
その口調は不気味なほど明るく、明らかな殺意を含んでいた。
小原も危険を察知したのか、狼狽した声を出す。
「小林さん、約束が……」
通話が切れた。
「クソッ!」
小原は悪態をつき、私の方へと歩み寄ってきた。
ドスッ、と腹部に重い衝撃が走る。
私は痛みに体を丸め、たまらず悲鳴を上げた。
「クソが!」小原は血走った目で、再び私を蹴り上げた。
私は腹を庇い、歯を食いしばって訴える。
「やめて……! 私のお腹には黒木琉生の子供がいるのよ! 私に何かあったら、あなたが殺されるわ!」
小原は一瞬呆気にとられ、次の瞬間、腹を抱えて笑い出した。
「黒木琉生の子供? 誰がてめぇの腹の中にいる雑種のことなんか気にするかよ」
私の心臓が凍りついた。
「ああ、知らなかったのか? 黒木琉生はお前を代理母にしようとしたが、お前の妹はお前に天野家の子供なんて産ませたくなかったんだ」
「それであいつは俺に浮浪者を探させて、その精子を採取してお前に体外受精させたんだ」
小原はしゃがみ込み、私の頬を乱暴に掴んだ。
「なぁ、そんなドブネズミの子供に、誰が価値を見出すって言うんだ?」
頭の中が真っ白になった。
「妹から金が取れないなら、黒木琉生から金を巻き上げるのも無理だろう」小原の目が卑猥で陰湿な光を帯びた。「なら、せめて黒木琉生の女を味わってやるとするか!」
彼の手が私の服を引き裂く。
私は必死に抵抗し、手探りで床を這った指先が、冷たい鉄パイプに触れた。
その時だ。
轟音と共に、入り口の扉が蹴破られた。
