第1章
「七海。この『健康な健診結果』、雪美っていうあの馬鹿に……うまく漏らして」
洗面台にもたれている母は、紙みたいに青白い顔をしていた。なのに口元だけが、冷たくつり上がっている。
「私が欲しいのは、智則の心変わりじゃない。欲しいのは――あいつの社会的な死。亜衣のために、絶対に譲れない利益を奪い取るの」
七海は涙をこらえながら、その通りにした。
そのとき、階下から車のドアが閉まる鈍い音がした。
父が帰ってきたのだ。世界的に名の知れたピアニスト――なのに、安っぽい香水の匂いをまとって。
ネクタイすら外さず、父は大股で階段を上がりながら腕時計をちらりと見る。
「文香、荷造りはできてるか。雪美の今夜のチェロ・リサイタルに、すぐ駆けつけないといけない。付き添う約束なんだ」
私は胸元の服をぎゅっと握りしめた。怒りで心臓が、いつものあの締めつける痛みを返してくる。
母が影から出てきた。背筋はまっすぐ。骨の奥を焼くような痛みなど、存在しないみたいに。
「智則……今日じゃなきゃだめ? 亜衣、今日は心臓の具合がよくないの。夜、発作が出るかもしれない。少しでいいから、そばにいてあげられない?」
父は足を止め、振り返った。見下すような目で母を見る。
「文香、お前はいつになったら分別を持つんだ」
「若い女の子に時間を無駄にしたいとでも? 俺だって好きでやってるわけじゃない」
父は私の前まで来て、頭を撫でた。
「亜衣の心臓は日ごとに弱ってる。新しい心臓が必要だ」
「雪美の心臓は、亜衣と完全に適合する。だから俺は雪美をそばに置いてる。金をかけて支えて、機嫌を取って、最高の状態を保たせて――俺たちの娘のための、予備の心臓を育ててるんだ」
耳を塞ぎたくなるほど、吐き気のする偽善。
父は『私のため』を旗印に、堂々と浮気相手を飼っている。
母に大きく受け入れろと迫り、私にはその『犠牲』に感謝しろと言う。
深夜、父が雪美に電話で囁く、あの粘ついた声を何度も聞いていなければ――
もしかしたら私は、本気で父を立派な人だと思い込んでいたかもしれない。
母は取り乱さなかった。
ただ、嘘で口を満たした男を静かに見つめる。
「でも智則、私の身体が……」
「身体がどうした」父は苛立ったように言葉を切った。
「お前は一日中、家で大げさに具合悪いふりしてるだけだろ。くだらない言い訳で俺を引き留めるな。俺の時間は高いんだ」
父は踵を返し、出ていこうとした。
――バン!
邸の玄関扉が乱暴に押し開けられた。
雪美だ。
「智則! この意地悪なオバサンに騙されてる!」
雪美は甲高く叫び、数枚の紙をテーブルに叩きつけた。
ひらひら散った紙――七海がさっき偽造した、あの健診結果。
父の足がぴたりと止まる。眉を寄せて戻り、視線が報告書に落ちた。
雪美は顎を高く上げ、勝者みたいに父の胸に寄り添うと、母を指さして嘲った。
「ねえ、見て。これがあなたの『毎日不幸ぶってる妻』よ。骨肉腫の末期? 痛くて起き上がれない? 全部ウソ!」
「私が病院の中から回してもらった極秘の健診結果なんだって。ほら、病気なんか何もない。がん細胞は奇跡的に消えてて、数値だって私より健康!」
雪美は得意げに笑い声を上げた。
「文香、ほんっと卑しい。智則の心がもう私にあるのがわかってて、勝てないからって、医者を買収して難病ぶるの?」
「死にかけのふりで同情を買って、娘を盾にして……そんなので智則を縛れると思った?」
私は怒りで震え、爪が掌に食い込む。
「黙って! 私のママを侮辱しないで!」
息が荒くなる。雪美の鼻先を指さして叫んだ。
「ママは毎晩、血を吐いてる! 痛くて歩けないの! 出ていってよ、この悪い女! うちから出ていけ!」
「亜衣!」
父の怒鳴り声が、私の言葉を叩き落とした。
こめかみに血管が浮き、父は報告書をぐしゃっと握り潰している。
「……偽物か?」歯ぎしりするように母へ迫り、報告書を勢いよく母の顔に叩きつけた。
「骨肉腫の末期は嘘だったのか!」
「文香……お前は、反吐が出る!」
母は避けなかった。哀しそうに父を見上げる。
「智則……赤の他人が持ってきた紙は信じて、同じ布団で十数年過ごした妻は信じないの?」
「証拠が目の前にあるのに、まだ言い逃れか!」
父は完全に逆上したようだった。
雪美の肩を抱き寄せる。
「仮病で愛情を奪い合う、下劣な真似をしただけでも十分だ。お前は亜衣まで焚きつけて、嘘をつかせた。心臓の悪い子を守りもしないで、利用して雪美を攻撃させたんだ!」
「文香……俺はお前に失望した。お前は腹黒い毒婦だ。それだけじゃない。母親としても失格だ!」
心臓が狂ったように暴れ、鋭い痛みが走って私は身体を折り曲げた。
「パパ、違う……ママは嘘なんか……」説明しようとする。
けれど母が、私の手を強く掴んで止めた。
「……いいよ」
母の声は、今にも消えそうな風みたいに軽かった。
「行きなさい」
父は鼻で笑った。
「雪美の今夜のリサイタルが無事に終わるよう祈っておけ。今日のお前の発狂で、あいつの気分が乱れたら――責任は全部お前だ」
そう吐き捨て、父は容赦なく背を向けると、扉を乱暴に叩きつけて出ていった。
大きな扉が閉まった瞬間、邸の中は死んだみたいな静けさに沈んだ。
私はとうとう耐えきれず、その場にしゃがみ込んで崩れるように泣いた。
「ママ……どうして健康なふりなんてしたの……? あんなに痛いのに……どうして私に言わせてくれなかったの……?」
