第2章
母はゆっくりとしゃがみ込んだ。
まっすぐだった背筋が、その瞬間に折れる。まるで体の芯から力を抜き取られたみたいに。
点滴のせいで青紫に痣の浮いた手を持ち上げ、母は優しく私の髪を撫でた。
「亜衣、泣かないで。雪美が……あまりにも愚かだから。私が仮病だってでっち上げて陥れる、なんて発想すらないの。手に入った証拠を、得意げに振り回すだけ」
頬に触れる指先が冷たい。
「亜衣、覚えておきなさい。智則がいずれ、この報告書が偽造だって気づく。私が冷たい遺体になるのを、あの人が自分の目で見る。そのあとなら――雪美が私のことでも、自分のことでも、どんな証拠を持ち出してきても、智則は二度と信じない」
狼が来た、の話も。極限までやり切れば、誰かの信頼の堤防なんて、跡形もなく崩せる。
私はよく分からないまま、母を見つめた。
ただ分かったのは、母がもう長くないということ。
涙が、さらに止まらなくなる。
母の目元も赤く滲んでいた。
母は私をきつく抱きしめ、顎を私の肩に乗せたまま、長い息を吐いた。
母はかつて、T市の金融界の大物に囲われたカナリアだった。
その頃の父は、パーティーで頭を下げ、スポンサーを乞う落ちぶれたピアニストにすぎなかった。
母が大物の膝の上で甘く笑った、それだけで。父は運命を変える額の支援と、一流ホールへ通じる切符を手に入れた。
やがて、その金融界の大物は詐欺で連邦刑務所へ。
そして父は時流に乗り、資産億超えの国際的な殿堂入りピアニストになっていた。
N市の上流社会が隠そうともしない嘲笑の中で、父は「戦利品」として弄ばれていた母を迎えに行った。
余計な言葉も、蔑みもない。
父は母の手を引き、ラスベガスへ連れていき、そのまま結婚の手続きをした。
結婚後の母は、M市でいちばん傲慢で、いちばん大切に扱われる女になった。
フランス南部の古城。父の個人ツアーとレコードの印税、その五割の持分。
そして母が私を身ごもったときには、何千万ドルも投じて、小惑星の永久命名権まで買った。
「文香は、腐りきった俺の人生で唯一の救いだ」
父はかつて、報道陣の前で母の手の甲に口づけ、そう誓った。
言ったことは必ず守る男だったはずなのに。
二人は、狂おしいほど幸福なまま、ずっと愛し合っていけたはずだった。
――私が生まれるまでは。
私は先天性心疾患で、父はずっと移植用の心臓を探していた。
三年前、父が雪美を連れてきた日のこと。父は私を抱き、慈しむような目で言った。
「亜衣、雪美だ。おまえと心臓の適合が完全に一致してる。神様がくれた、動くドナーだ」
……それなのに、どうして。
私が危篤になり、医師が「手術の予行演習を今すぐ。雪美さんにも検査への協力が必要です」と告げたとき。
雪美は眉をひそめただけで、こう言った。
「痛いの怖い。手術灯を見ると気絶しちゃうの」
父は、医師たちの目の前で母の頬を叩いた。
「文香、雪美は生きた人間だ。冷たい臓器じゃない! おまえは残酷すぎる!」
あの日、私は手術台の上で死にかけた。
その頃、父は雪美の手を引いて、M市のオープンテラスで「助かった記念」を祝っていた。
我に返ったとき、母は古びたレコード録音機の前に座っていた。
父が有名になる前、母に贈った唯一のプレゼント。
母は震える指で録音ボタンを押す。
「智則……十年目よ。レインボーブリッジの下でプロポーズしたとき、あなたが言ったこと……覚えてる?」
母の声は細く、砕けそうだった。
この十年の屈辱も、譲歩も、父が口にした誓いも。ひとつずつ、黒い盤に刻み込むつもりなのだ。
録音は遅々として進まない。一言話すたびに、母は息を荒くして止まる。
それが――私を守るための、最後の武器。
途中で、母の体がびくりと跳ねた。次の瞬間、何の前触れもなく椅子から崩れ落ち、床へ叩きつけられる。
「ママ! 七海! 誰か来て!」
私は恐怖で喉を裂くように叫んだ。
窓の外では、N市の豪雨が突然、滝のように降り出していた。
七海を待っていられない。私は震える手で引き出しを漁り、母が常用している特効の鎮痛剤を探した。
……ない。
激痛で歪む母の顔を見た瞬間、胸の奥がきゅっと縮む。
私は父が母に持たせていたサブカードを掴み、冷たい雨の中へ飛び出した。
薬を買わなきゃ。こんなふうに痛みで死なせるわけにはいかない――!
雨は針みたいに頬を刺した。
私は必死に走った。壊れかけの心臓が、胸の中で狂ったように脈打つ。
泥の中に転び、膝がずるりと裂けて血で濡れる。それでも這うように起き上がった。
ようやく、街角の24時間営業の薬局に飛び込む。
「薬! このカルテに書いてある鎮痛剤! 早く!」
黒いカードをカウンターに叩きつけた。全身ずぶ濡れで、きっと狂人みたいだった。
レジ係は同情するように私を一瞥し、端末に通す。
「ピッ――」
赤いランプ。
「すみません、お嬢さん。このカード、凍結されてます」
私は凍りついた。
「そんなはずない! もう一回やって! 限度額のないカードなの!」
「本当に無理です。システム上、メインカードの持ち主が口座を止めています」
震える手でスマホを取り出し、父に電話をかけた。
長い呼び出し音のあと、ようやく繋がる。
出たのは父じゃない。雪美だった。
「もしもし? どちらさま?」
気だるそうな声。
「パパに代わって! なんでカード止めるの! ママが痛みで死にそうなの、薬を買わなきゃ!」私は受話口に絶望をぶつけた。
雪美が小さく笑う。
「ああ、亜衣か。智則が言ってたよ。これは文香へのお仕置きだって」
「医者を買収して報告書を偽造したなら、鎮痛剤なんて要らないでしょ? ね?」
「嘘つき! あれは偽造なんかじゃない! ママ、血を吐いてる!」
「本当かどうかなんて、智則はもう気にしてないよ」
雪美の声が不意に弾んだ。隠しきれない高揚が滲む。
「ねえ、私たちがどこにいるか分かる? レインボーブリッジ。今夜の私の独奏会が大成功だったからって、智則が橋を封鎖して花火上げてるの」
「街中、交通まひだよ。どこも渋滞」
「智則が言ってた。今夜の花火は、あなたのお母さんに初めて会った日より綺麗だって」
「……あなた……」
言い返そうとした瞬間、心臓に電撃みたいな激痛が走った。
視界が真っ黒になり、私はその場に崩れ落ちた。
次に目を開けたとき、目に入ったのは七海の真っ赤な目だった。
「亜衣、やっと……! あなた、二時間もショック状態だったんだよ!」
私は首を回す。
隣のベッドに母が横たわっていた。
母は私を見つめ、地獄の底から這い上がってきたみたいな冷たい声で言う。
「智則、電話に出なかったのね」
鼻の奥がつんと痛む。涙が、また粒になって落ちた。
そのとき、父の秘書――佐々木から電話が入った。
「奥様。影山さんと雪美さんがベビールームで家具を選んでいる写真が流出しました。現在、ネット上で影山さんの私生活について騒ぎになっています」
声は機械みたいに無機質だった。
「影山さんからの伝言です。すぐに釈明動画を撮ってください。雪美さんは親戚で、あの健康診断の報告書は奥様が代理で受け取っただけ、と」
「来月のツアーの売り上げに影響するような雑事は、絶対に潰せ――とのことです」
