第3章

 母は佐々木との通話を切った。

 泣き叫ぶでもなく、取り乱すでもなく――ただ、驚くほど静かにスマホスタンドを立てた。

「ママ、何してるの?!」

 私は恐怖で駆け寄り、レンズを倒そうと手を伸ばした。

「なんでママが背負うの?! 悪いのはパパじゃん! お願い、外で恥さらしなんてしないで!」

 母は私をぐっと抱きすくめ、逃げられないように胸元へ押しつけた。青白い顔に、場にふさわしい、作りものみたいに整った微笑みさえ浮かべて。

「亜衣、いい子だから言うことを聞いて」

 母はまっすぐカメラを見据えた。声はやさしいのに、芯が凍るほど冷たい。

「これは智則の会社であると同時に……あなたの将来の財産よ。会社の利益を守るためなら、ママが少し屈辱を受けたってどうってことないわ」

 動画は投稿された。

 母は画面の向こうの人々に、落ち着いた笑顔で説明する。

「すべて誤解です。雪美さんは智則の遠い親戚で、身の回りを見てくれる人がいないんです。あの健康診断の書類は、私が代わりに受け取っただけで……」

 投稿から三十分もしないうちに、ネットは爆発した。

 XもInstagramも、母への嘲笑で埋め尽くされる。

「史上いちばん卑屈な妻」だの、「金のためならプライドも売る貢ぐ君」だの――好き放題に叩かれた。

 けれど、父は満足そうだった。

 その夜、父はようやく家に帰ってきた。

 スーツを脱ぎ、珍しく母を抱きしめる。私の額にも、父親らしさを装ったキスを落とした。

「文香、やっぱり君は話がわかる」

 父は笑い、施しでも与えるみたいにポケットからベルベットの小箱を二つ取り出した。

「ご褒美だ。特注のネックレスだよ。つけておけ」

 蓋を開けると、粗い造りの金属のネックレスが二本。安っぽさが鼻につくほどだった。

 私は父を見た。壊れかけた心の奥で、かすかな期待が芽を出してしまう。――まだ、ほんの少しでも私たちを大事に思ってるの?

 父が「練習する」と言い訳して、音楽室へ行った直後。

 スマホがぶるり、と震えた。

 Instagramの「特別な通知」。

 雪美が新しい投稿をしていた。添えられた写真は、時代を感じさせる息をのむほど美しいアンティークのチェロ。

 キャプションは、あまりにも傲慢だった。

【智則が$5,000,000で落としてくれた破格の値段のアンティークチェロ! 交換した古い弦もムダにしないよ。ちょうどネックレス二本にできたし】

 ――どんっ。

 頭の中で、何かが爆ぜた。

 血が、一瞬で冷えきる。

 私は手の中のネックレスを凝視し、胃の奥がぐらりとひっくり返るような吐き気に襲われた。

 これが、父の言う「ご褒美」?

 怒りで喉が裂けるほど叫び、ネックレスを掴んだまま父の部屋のドアを叩き割りに行こうとした、そのとき。

「亜衣、止まりなさい」

 母の声は、驚くほど冷静だった。

 母は無表情のまま首元のネックレスを外すと、まるでウイルスの付いたゴミでも捨てるみたいに、ぽいっとゴミ箱へ放り込んだ。

 そして、私の目の前で淡々と――七海と、弁護士に電話をかけた。

「七海。私の安楽死の日程、決めていいわ」

 母の声には一片の震えもない。

「来月……智則の、初めての国際ツアーの祝勝パーティーの夜に」

 受話口の向こうから、七海の崩れた泣き声が聞こえる。それでも母は、ただ静かに聞いていた。

 電話を切ると、母は振り返り、涙だらけの私を射抜くように見つめた。

「亜衣。絶対に忘れないで」

 声の底に、凍りつくような狂気と決意が滲む。

「特別な夜にするの。そうすれば、あの人は舞台に立つたび、拍手を聞くたび……私の死を思い出す。永遠に、悪夢と影の中で生かすのよ。そうしないと、あなたの取り分は最大にならない」

 私は必死に首を振った。涙が決壊して、止まらない。

 取り分なんていらない。最大化なんてどうでもいい。

 欲しいのは、母だけなのに。

 けれど母は乱暴に私の涙を拭い、両手で肩を掴んだ。

「明日から、マスコミの前で先に仕掛けなさい。雪美を挑発するの」

「記者にはこう言うのよ。――あの女は、いつでも捨てられる安物だって。怒らせて、みんなの前で取り乱させる。狂ったみたいにね」

「私の骨を踏み台にして、あなたが手に入れるべき駒を全部、取りに行きなさい」

 反論なんてできなかった。

 私は自分の部屋へ逃げ込み、布団を頭まで引き上げて、母の命が尽きる日を――絶望のまま指折り数えた。

 母はいつも、激痛を引きずる身体で私を抱きしめに来る。やさしくあやし、死んだら空の星になってずっとそばにいる、と言った。

 私はもう十歳だ。そんな子ども騙し、信じるわけがない。

 母が嘘をついているのはわかっている。

 それでも私は唇を噛み切るほど噛み、無理やり笑ってみせた。崩れ落ちそうなものを全部、腹の底へ飲み込む。母が死ぬ前に、ほんの少しでも未練を残さないように。

 死神の足音は、いつだって容赦なく早い。

 父の国際ツアーの祝勝パーティーの夜が、ついに来た。

 M市でも指折りの豪奢な晩餐会。名士がひしめき、フラッシュが雨のように瞬く。

 母は過量の強心剤を打ち、最上級のオートクチュールに身を包んで父の腕にすがりついた。完璧な笑顔で――まるで、絵に描いた理想の夫婦みたいに。

 だが、会場の熱気が最高潮に達した瞬間。

 雪美が現れた。

 楚々とした白いドレス。片手でわざと、わずかにふくらんだ腹を押さえる。目元を赤くして、いかにも「傷つけられた」ふうの、今にも崩れそうな絶望を演じていた。

 数百の視線が集まる中で。

 父はためらいなく――母の手を、人前で振りほどいた。

「人が多すぎる。雪美は妊娠してるんだ、ぶつかったら大変だろ」

 投げ捨てるように言い訳を残し、父は大股で雪美へ向かう。大切そうに腕の中へ庇い入れた。

 会場はしん、と凍りつき。すぐに、隠しもしないひそひそ声と、哀れみ混じりの溜息が広がる。

 憐憫と嘲りの視線が、刃物みたいに母へ突き刺さった。

 それでも母は、ふっと笑って――。

 会場の隅に立つ、その男へ視線を送った。

前のチャプター
次のチャプター