第4章
それは鈴田だった。
T市で風向きをひっくり返すほどの影響力を持つ、トップクラスのベンチャーキャピタリスト。父にとって最大のスポンサーであり、そして――何年も母を黙って追い続け、骨の髄まで愛していた男。
鈴田は背の高いグラスをテーブルに叩きつけた。ガンッ、と鈍い音が響く。
「村田さん」
視線は一切そらさない。雪美に釘を刺すように、冷たく、真っすぐ。
「このツアーに俺が突っ込んだのは5000万ドルだ。今すぐ外のテラスへ出ろ。そこで2時間、弾き続けろ」
雪美はびくりと全身を震わせ、たちまち目元を赤くした。
怯えた白兎みたいに父の胸に潜り込み、両手でふくらみ始めた腹を必死に守る。
「智則、外、雨よ……! 怖い……。赤ちゃんだって怖がる……!」
父はすぐさま腕に力を込め、雪美を胸に抱え込むようにかばった。
そして鈴田へ向き直り、怒りを押し殺して笑みを貼りつける。
「鈴田……彼女は妊娠してる。冷えは絶対に無理だ。俺の顔を立ててくれ。妊婦をいじめるな」
「おまえの顔?」
鈴田が鼻で笑った。圧をかけるように一歩、また一歩と詰め寄り、その声は会場の隅々まで届くほど大きい。
「その顔を立てないって言うなら、うちのスポンサー契約は全部――今夜この場で白紙だ」
父が固まった。
5 000万の資金。世界ツアーという帝国。それは父にとって命そのもの。
父は腕の中で震える雪美をちらりと見下ろし――次の瞬間、勢いよく顔を上げ、背中も伸ばせないほど弱りきった母へ視線を投げた。
「文香」
父の声には、温度が一欠片もなかった。
「おまえが行け。雪美の代わりに弾け」
私は狂ったように飛び出し、父のスーツを両手で掴んで引き止めた。
「頭おかしいの!? ママは病気なの! 医者が言ったでしょ、風に当たっただけで痛みで地獄だって! 死んじゃう!」
「黙れ!」
父は私を乱暴に突き飛ばす。
「亜衣、おまえら母娘の仮病だの悲劇ぶった芝居だの、いい加減やめろ!」
父は大股で歩み寄り、母の腕を乱暴に掴むと、そのまま引きずるようにして、土砂降りのテラスへと連れていった。
ごうごうと唸る風。凍るような雨が鞭みたいに横殴りに叩きつける。
薄いオートクチュールのドレス一枚の母は、雨に打たれてぐっしょり濡れたピアノの前へ無理やり押しつけられた。
鈴田は少し離れた場所に立っていた。目は真っ赤で、両拳は白くなるほど握り締められ、爪が肉に食い込みそうだった。
二時間――。
刺すような冷たい雨が母の背中を叩き続ける。母が鍵盤を押すたび、骨の隙間から絞り出されるみたいな絶望の悲鳴が、私には聞こえた気がした。
そして――「ぶっ」と鈍い音。
ついに母は耐えきれず、糸の切れた人形のように、椅子から崩れ落ちて泥水に叩きつけられた。
会場から、押し殺したようなざわめきと息を呑む気配が起きる。
けれど父が感じたのは、恥をかかされた屈辱だけだった。
父は雨の中へ踏み込み、母を乱暴に引き起こす。
「いつまで死んだふりして人前で恥さらす気だ!?」
そのまま母を引きずり、佐々木へ放り投げるように命じた。
「こいつを家に連れ帰って閉じ込めろ!」
「そんなに不治の病を演じたいなら、そこで好きなだけ演じてろ!」
父は吐き捨て、背を向けて宴会場へ戻ると、怯えた雪美を抱き寄せたまま去っていった。
堪え続けていた鈴田と七海は、私を連れて素早く佐々木の後を追い、家へ戻った。
家に着くころには、佐々木は母を三階のピアノ室に鍵をかけて押し込み、また宴会場へ車で戻っていた。私たちは彼が去った隙に、すぐ母のもとへ向かった。
母は床にうつ伏せで倒れていた。真紅の血が白いスカートを完全に染め上げている。
「急いで……時間がない」
母はガラス越しに、かすれた声で外の鈴田へ指示を飛ばす。
「仕掛けは……できてる? 必ず、下のソファが激しく衝撃を受けた瞬間に、この防弾ガラスが一気に砕けるように……」
鈴田は扉の外に膝をつき、爆破用の台座を半狂乱で取り付けながら、体を震わせて泣いていた。
七海は口を手で塞ぎ、涙が大粒のまま床へぽたぽた落ちる。
仕掛けが完成した、その最後の瞬間。
母は震える指で胸元の内ポケットを探り、七海が用意していた真っ白な錠剤を取り出した。
迷いは一切ない。母は顔を上げ、そのまま飲み下した。
激痛が瞳孔を滲ませ、命が急速に抜けていく。それでも母の表情だけは、かつてないほど静かで、解き放たれたように穏やかだった。
「……これで、綻びはないはず」
厚いガラス扉の向こうから、母は私をまっすぐ見つめた。
「亜衣。ママが教えたこと、全部覚えて。あなたのものは、全部取り返しなさい」
「……宝物。さよなら。ママはずっと、あなたを愛してる……」
声はどんどん弱くなり――やがて、ピアノ室の空気の中に、完全に消えた。
母は死んだ。
鈴田は拳で床の石を叩き割り、七海は雨の中で嗚咽を漏らした。
けれど私は、ただその場に立ち尽くし、目を見開いたまま、涙を一滴も落とさなかった。
涙なんて、いちばん役に立たない。
母は命で、血に染まった復讐の道を私に敷いてくれた。私は絶対に――母を負けさせない。
私は踵を返し、静かにリビングへ戻った。
真っ暗なソファに腰を下ろし、気の長い狩人みたいに、壁の時計だけを見つめ続ける。
やがて玄関の暗証ロックが「ピッ」と小さく鳴った。
父が雪美を抱き寄せて帰ってきた。
私はすぐ立ち上がり、テーブルに用意しておいたぬるい水を手に取って、従順で怯えた顔を作って近づいた。
「パパ、おかえりなさい。お水、飲んで」
その水には、七海が買ってきた薬を溶かしてある。無色無臭で、じわじわと生殖機能を奪っていく――慢性の毒。
父は無防備だった。私がやっと母の話をしなくなったとでも思ったのだろう。グラスを受け取り、一気に飲み干した。
飲み終えると父は雪美を横抱きにし、雪美が甘い声を漏らす。そのまま二階の主寝室へ向かった。
その主寝室の真上にあるのは――母の遺体が閉じ込められている、ガラスのピアノ室。
雪美は露出の多いシルクのネグリジェ姿で、発情した水蛇みたいに智則の体へ絡みつく。
主寝室の扉はきちんと閉められず、細い隙間が残っていた。
鈴田と七海は廊下の暗がり、死角に身を潜めたまま、真っ赤な目で二階の気配を睨みつけている。
私も階段の影に立ち、無表情のまま、地獄へ落ちていく男女を見上げていた。
熱が上がり、衣服が床へ散る。
父は雪美を乱暴にソファへ押し倒し、最後の布を引き剥がそうとした――そのとき。
雪美が指先で、甘ったるく父の胸を押さえた。
視線は父の左手、薬指へ。
廊下の薄いブラケットの灯りの下、私は雪美の毒を含んだ唇が形作る言葉をはっきり読み取った。
「ねえ、あなた。結婚指輪、外して?」
「全部捨てて……私たちの赤ちゃんを、先に感じたいと思わない?」
父が低く笑い、ためらいもなく、母との十年の婚姻を象徴するダイヤの指輪を引き抜いた。
悪臭のするゴミでも捨てるみたいに、床へ放り投げる。
そして父は体勢を入れ替え、雪美をソファに押さえつけたまま、激しく動き始めた。
ソファが衝撃に耐えきれず、ぎし、ぎし、と呻く。
その動きが最高潮に達した――まさに、その瞬間。
「ボン!!!」
耳を裂くような爆裂音。
主寝室の上、天井が轟音とともに砕け散った。
次いで、雪美の喉を切り裂くような悲鳴。
蒼白くねじれた女の死体が、真上から落ちてきて、床板をぶち抜く。
そして――。
絡み合い、溺れきっていたあの二人のど真ん中へ、ずしりと、容赦なく叩きつけられた。
