第3章
どこからともなく現れたその見知らぬ男を前に、私は凍り付いた。
男は非の打ち所がないほど完璧に仕立てられたネイビーのスーツを身にまとっていた。真夜中の屋上だというのに、まるで高級なガラパーティーから抜け出してきたかのように、そのスーツはぱりっとしたままだった。月光が彼を照らし、その長身で細身のシルエットを縁取っている。
ここは私の屋上。私が選んだ、終わりの場所のに。
それを、誰かに奪われてしまった。
彼がゆっくりと首をこちらに向け、ハンサムだが疲れ果てた顔が露わになる。目の窪みがわずかに落ち、私にはあまりにも見覚えのある絶望を浮かべていた。
「君も、死にに来たのか?」彼の声は低く、どこか投げやりな皮肉が混じっていた。
そのあまりの単刀直截さに、私は息を詰まらせそうになった。用意していた悲しいお別れのスピーチは喉の奥に引っかかり、冷たい笑いへと変わる。
「どうやら、ここは人気の場所みたいね」私はそう答え、屋上の縁へと歩み寄った。
彼の視線が私に落ちる。まず私が念入りに選んだ白いドレスを値踏みするように見つめ、それから私の手首に固定された。私はとっさにそれを隠そうとしたが、もう遅かった。
「ひどい傷だな」それは問いかけではなく、断定だった。
「どうせ死ぬんだから、関係ないでしょ」私は肩をすくめ、無関心を装おうとした。けれど、声は弱々しく震えていた。
彼は眉をひそめ、その深い瞳に何かが揺らめいた。「いくつだ? ずいぶん若く見えるが」
「二十歳。今日が誕生日だったの」私は苦々しく微笑んだ。「誰も覚えてなかったけど」
そう口にしてから、なぜ見ず知らずの他人にこんなことを明かしているのだろうと気づいた。どうせ死ぬからか、それとも彼の瞳に宿る疲労が、私の中の何かと共鳴したからか。
彼はしばらく黙っていたが、やがてこちらへ歩いてくると、屋上の縁に腰を下ろした。「直哉だ。メンタルクリニックを経営している」
『メンタルクリニック? なんて皮肉。セラピストでさえ死にたいと思うなら、どこに希望があるっていうの?』
「紗奈」私も隣に座り、足を縁からぶらりと投げ出した。「それで、あなたはなぜここに? 成功したセラピストなら、生きる理由なんていくらでもあるでしょう?」
直哉は力なく笑い、視線を遠くの街の灯りに向けた。「三年前に親父が自殺した。ずっと、俺のせいだと感じている」
声は穏やかだったが、その下に隠された痛みを感じ取った。一番身近な人間に傷つけられ、そして自分を責めてしまう、私もよく知っている痛み。
「何億という金を積んでも、親父から『愛してる』の一言は買えなかった」彼は続けた。「残されていたのは、俺が期待外れだったと書かれた置き手紙だけだ」
奇妙な怒りがこみ上げてきた。彼に対してではない。私たちを傷つけた者たちへの怒りだ。
「少なくとも、あなたのお父さんはもう死んでる」私の言葉は残酷に響いたかもしれないが、構わずに続けた。「私の家族はまだ生きてる。毎日私の顔を見ているのに、どこか別の場所で死んでくれって思ってるのよ」
直哉がこちらを向く。その瞳には、切迫した懸念の色が浮かんでいた。
私は深呼吸をして、すべてを話すことに決めた。どうせ二人とも、もうすぐ死ぬのだ。隠すことなど何もない。
「十歳のときに人身売買にあって、十年も行方不明だった。三ヶ月前、やっとの思いで家に帰ったの。温かい再会があると思ってた」私の声が震え始める。「でも、家族は私が家の名誉を汚したと思ってる。今日、癌の診断を受けたわ。医者には余命三ヶ月から半年だって。それを伝えたら、嘘つきだって言われた」
ここまで話すと、もう笑うしかなかった。ヒステリックな笑い声が漏れる。「手首を切って見せたら、偽物の血だって。妹には、自分の誕生日パーティーを台無しにするための演技だって言われたわ」
直哉の表情が変わった。その瞳に、今まで見たこともないような激しい怒りが燃え上がった。
「なんだと?」彼の声は恐ろしいほど低かった。「今、なんて言った?」
「癌だって言ったの。そしたら信じてもらえなくて.......」
「そこじゃない」直哉が私の言葉を遮った。「十年、人身売買にあっていたと言ったか? 家族は君が戻ってきたことを知っているんだな?」
私は頷いたが、彼がなぜそれほど動揺しているのか理解できなかった。
直哉は突然立ち上がり、屋上を歩き回り始めた。拳は固く握りしめられ、こめかみに血管が浮き出ている。
「ちくしょう!」彼はくるりとこちらを向いた。「俺は親父に一度『愛してる』と言ってもらうためなら何億でも出すっていうのに、君には家族がいる、血の繋がった人間がいるっていうのに、そんな扱いをするのか!」
彼の怒りはあまりに真に迫っていて、強烈で、私は呆然としてしまった。私の身に起きたことに対して、無関心や疑いの目ではなく、怒ってくれた人なんて初めてだった。
涙で視界が滲み始める。「それが何だって言うの? 彼らは私が外で死んでいればよかったと思ってる。本当は私のことなんて、愛してなかったのよ」
「違う」直哉は私の方へ歩み寄り、視線を合わせるように屈んだ。「間違っている、君。これは愛しているとか、いないとかの問題じゃない。これは、彼らの問題だ」
彼の声は、穏やかだが断固としたものに変わった。「紗奈、よく聞け。俺は君を死なせはしない」
その言葉は、雷のように私を撃ち抜いた。誰も、ただの一人も、私にそんなことを言ってくれた人はいなかった。
だがその瞬間、強烈なめまいに襲われた。失血、感情の激動、そして眠れなかった夜。すべてが、ついに私の身体の限界を超えさせたのだ。
立とうともがいたが、足は綿のように力が入らない。視界が暗転し、世界がぐるぐると回り始めた。
「紗奈!」
直哉の声が遠くに聞こえる。自分が倒れていくのを感じたが、温かい腕が私を受け止めた。
「ちくしょう、血を失いすぎだ」彼の声は心配に満ちていた。
「いいの……」私は弱々しく言った。「死なせて……これで全部終わるから……」
「いや、絶対にだめだ」
彼が電話をかけるのが聞こえた。「ダウンタウンのアパートの屋上にヘリを一台、すぐに寄越してくれ。重度の失血がある癌患者だ、緊急治療が必要だ。ああ、俺だ。今すぐ離陸させろ」
『ヘリコプター? 専属の医者? この人、一体何者なの?』
意識が遠のいていく中、彼が私の耳元で囁くのが聞こえた。
「俺が君を守る、紗奈。もう誰にも君を傷つけさせない。誓うよ」
遠くで、ヘリコプターのローター音が大きくなり、近づいてくる。直哉の手が私の手を強く握っていた。その力強さが、今まで感じたことのない安心感をくれた。
完全に意識を失う直前、彼の瞳が見えた。そこには疑いも、無関心もなく、ただ揺るぎない決意だけが宿っていた。
もしかしたら……もしかしたら、死だけが結末じゃないのかもしれない。
もしかしたら、本当に私を守ってくれる人がいるのかもしれない。
闇がすべてを飲み込んでも、あの瞳の温かさだけは、私の心の中で燃え続けていた。
