第2章

香織視点

「おかえりなさい。あなた、匂いが……違う」

 長時間座りっぱなしで感覚のなくなった足を引きずり、私はソファから立ち上がった。

「仕事で急なトラブルがあってな」彼の言葉は少し呂律が回っていない。「デカいプロジェクトなんだ。葵と俺で、その……」彼は適当に手を振った。「何とかしなきゃならなかったんだよ」

「午前二時に? ねえ達也、私がどれだけ心配したか――」

「もう解決した」彼は私の横をすり抜け、寝室へと向かう。

「お味噌汁作ったの。温め直すから――」

「いらない」

「でも、何かお腹に入れないと――」

「いらないって言ってるだろ!」

 彼が急に振り返ったので、私は反射的に後ずさりした。「勘弁してくれよ、香織。こっちは一晩中働き詰めだったんだ。お前の小言を聞かされるのだけは御免だ」

「小言なんかじゃないわ。私はただ、あなたの体を気遣って……」

「だったら放っておいてくれ」彼はこめかみを押さえた。「もう寝る」

「達也――」

 腕に触れようとした私を、彼は振り払った。「疲れてるんだ。話はまた明日な」

 それは常態化していった。その週だけで三日も、彼が帰宅したのは日付が変わってからだった。言い訳はいつも同じ。仕事のトラブル、葵とのプロジェクト、クライアントの危機。

 いつだって、清水葵の名前が出てくる。

 金曜日になる頃には、もう味噌汁を温め直すこともやめていた。ソファで待つのもやめた。ただベッドに入り、暗闇の中でじっと、彼が鍵を開ける音に耳を澄ませていた。

「最近、残業ばかりね」

 土曜の朝、私は言葉を選びながら慎重に切り出した。「結婚式まであと五週間しかないのよ。少し仕事を控えめにできないかしら?」

 達也はノートパソコンから顔を上げた。明らかに不機嫌そうだ。「お前はビジネスってものを分かってないな、香織。今は会社にとって正念場なんだぞ」

「でも――」

「葵は文句ひとつ言わないぞ」彼は画面に視線を戻した。「俺が必要な時はいつだってそこにいて、時間を惜しまず働いて、結果を出してる。あいつは分かってるんだ」

「私はただ――」

「ただ、何だ? 結婚するからって俺に手を抜けって言うのか?」彼の声が鋭く、冷たく響く。「成功が勝手に転がり込んでくると思ってるのか? 誰かが汗水流して働かなきゃならないんだよ。葵はそれをやってる。あいつは本気なんだ」

「私だって本気よ。あなたのために仕事だって辞めたのに――」

「で、お前は一日中何をしてるんだ?」彼はノートパソコンを乱暴に閉じた。「花を選んで? ナプキンを決めて? そんなの仕事じゃないぞ、香織。ただのママゴトだ」

 喉が詰まった。熱いものがこみ上げてきたが、涙だけは流すまいと必死に堪えた。

「葵は外に出て、現実世界で戦ってるんだ。何かを創り出し、貢献してる」彼は立ち上がり、ジャケットを掴んだ。「手伝いたいなら、俺の労働時間について文句を言うのをやめることだな」

「どこ行くの? 今日は土曜日よ――」

「会社だ。俺たちの中には、現実的な責任を負ってる人間もいるんでね」

 バタンとドアが閉まる音が響き渡り、私はマンションの一室に取り残された。周りには結婚情報誌や色見本、そして始まる前から崩れかけている結婚式の席次表が散らばっている。

 スマホが震えた。由衣からのメッセージだ。「大丈夫? ブランチでもどう?」

 私は画面を見つめ、閉ざされたドアを見つめ、そしてコーヒーテーブルの上に置かれたままの結婚式の招待状のサンプルに目を落とした。

「小川達也 佐藤香織」の文字が目に入る……。

 その夜、彼が帰宅したのは午前二時半だった。

 私は膝の上にウェディングプランナーの資料を広げたまま、ソファで寝落ちしていた。ドアの開く音で目が覚める。

「達也」体を起こしたが、まだ頭がぼんやりしている。「すごく遅かったのね」

「プレゼンの資料を仕上げなきゃならなかったからな」彼は私を見ようともせず、そのまま寝室へ直行しようとする。

「夕飯、取っておいたわ。今すぐ温めるから――」

「もう食った」

「葵さんと?」

 彼の足が止まった。振り返る。「何だと?」

「葵さんと食べたの?」

「仕事しながら適当につまんだだけだ。それがどうした?」

 それがどうした。それがどうした、か。まるで何の意味もないことであるかのように、彼はそう言った。

「ただ……」私の声は小さく、弱々しかった。「寂しいのよ。最近ほとんど会えてないし、たまに会えたと思ったら、あなたはあの人の話ばかり……」

「勘弁してくれよ」彼は大げさに両手を上げた。「本気で俺の秘書に嫉妬してるのか?」

「してないわ……」嘘だった。間違いなく嫉妬していた。「ただ、もっと二人の時間を作るべきだと思っただけ。結婚式の前に……」

「俺が身を粉にして働いて、費用を工面しようとしてる結婚式のことか?」彼の目は冷え切っていた。「お前が望んだ結婚式だろ?」

「二人とも望んでいたはずじゃ……」

「違うな、香織。望んだのはお前だ。俺は待ちたかった。まずはビジネスを軌道に乗せたかったんだ。それなのにお前が無理に押し通したんじゃないか。で、今度は俺が働いてることに腹を立てるのか?」

 その言葉が、胸に突き刺さった。

「そんなのずるいよ」私は囁いた。「七年もあなたを支えてきたのに――」

「何をして支えたって? 家で座ってるだけでか?」彼は笑った。それは苦々しく、残酷な響きだった。「少なくとも葵は役に立つ。賢くて、意欲的で、野心もある」

 その言葉の一つ一つが、私の心を抉り取っていった。

「もう寝る」彼はまた背を向けた。「明日は起きて待ってなくていいぞ。葵とまた遅くまで仕事だからな」

 彼は寝室に入り、ドアを閉めた。冷めきった夕食と、すべてが音を立てて崩れ落ちていくような胸の痛みと共に、私はそこに立ち尽くした。

 私はソファに沈み込み、虚空を見つめた。

 由衣は忠告してくれていたのに。予兆は至る所にあった。でも私は、七年という歳月を信じきっていた。自信があったのだ。

 彼に限ってそんなことはしない、と私は言った。彼はそんな人じゃない、と。

 その夜、私は一睡もできなかった。隣で眠る達也の寝息を聞きながら、自分の人生なのに、まるで他人のような疎外感を感じていた。

 それからの三日間は、記憶が曖昧だ。達也の帰宅は深夜過ぎか、あるいは帰ってこないこともあった。家にいても、彼は私を見ようともしなかった。

 四日目の夜、彼は珍しく早く帰宅した。

 キッチンにいた私は、鍵が開く音を聞いて心臓が跳ねた。話ができるかもしれない。今日はいてくれるかもしれない。

「おかえり」私は無理に作った笑顔で振り返った。「あなたの好きな天ぷら作ったの――」

 カウンターの上で、彼のスマホが光った。ブブッ。ブブッ。ブブッ。

 達也の顔色が変わった。最近よく見るあの表情だ。油断なく、どこか興奮したような目。彼はスマホを掴み、指を走らせた。

「行かなきゃ」彼はもうドアの方を向いていた。

「え? 今帰ってきたばかりなのに――」

「仕事でトラブルだ」彼は私を見もしない。「大口のクライアントの件で、葵が俺を必要としてる」

 葵が俺を必要としてる。

「達也、お願い。後じゃだめなの? 私たち、もうずっと一緒に夕飯なんて――」

「香織、重要なことなんだ」彼の手はドアノブにかかっていた。「後で戻る」

「後でって、いつ?」

「分からん。待ってなくていい」

 バタンとドアが閉まった。

 私は一時間かけて作った天ぷらを見つめながら立ち尽くし、自分の中で何かがプツンと切れるのを感じた。いや。もう待つのはやめだ。信じるのもやめだ。これ以上、馬鹿を見るのはごめんだ。

 私は車のキーを掴んだ。

 街中を走る彼のテールランプを追いかけながら、ハンドルを握る手は震えていた。「こんなの異常よ」頭の中で声が囁く。「考えすぎだわ。彼は会社に向かってるのよ。地下駐車場に入る彼を見たら、きっと自分が馬鹿みたいに思えるはず――」

 しかし、彼は会社の方へは曲がらなかった。

 彼が車を走らせたのは、見たこともない住宅街だった。

 クライアントに会うのかもしれない。何か納得のいく説明があるはずだ。

 エンジン音をかき消すほど激しく高鳴る心臓の音を聞きながら、私は距離を保って後を追った。

 彼の車が減速し、こぢんまりとしたマンションの前で停車した。

 私は50メートルほど離れた場所に車を寄せ、ヘッドライトを消して、じっと様子をうかがった。

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