第3章
一晩中、あの忌々しいノートのことばかり考えていた。
寝返りを繰り返しても眠れず、頭の中は浩二の几帳面すぎる記録でいっぱいだった。一体いつから? なぜ記録なんて? 本当に私のことを想ってくれているなら、どうして私たちはこんなことになってしまったの?
朝の六時頃、キッチンから物音が聞こえた。浩二はもう起きている。私はしばらくゲストルームで横になってから、たった今起きたというふりをして部屋を出た。
彼は部屋着のままキッチンで忙しなく動き回っていたが、私を見るとすぐに身を硬くした。「起きてたのか、早いな。よく眠れなかった? コーヒー、淹れておいたよ」
ソファに腰を下ろし、彼が差し出したカップを受け取る。記録通り、ちょうどいい温度。ちくしょう。
「浩二」わざとゆっくり、朝特有の気だるい声をまとって尋ねる。「私たちって、普段どんなふうに過ごしてるの? 何か……親密な習慣とかってある?」
ガチャン、と大きな音を立てて、浩二が持っていたコーヒースプーンが床に落ちた。
「え?」彼の声が裏返る。熟したさくらんぼみたいに真っ赤な顔で慌ててスプーンを拾いながら、どもるように言った。「ふ、普通の夫婦みたいに、一緒にコーヒーを淹れたり、映画を観たりとか……」
思わず噴き出しそうになった。この男、緊張しすぎだ。どこに三年も付き合った彼氏の姿があるというのか。
「映画を観るときは、寄り添ったりする?」私はさらに探りを入れる。「何かが足りない気がするの」
浩二はさらに震え、コーヒーをこぼしそうになっている。
「君は結構、保守的なんだ」彼は視線をあちこちに彷徨わせながら、囁くような声で言った。「だから、ゆっくり進めてる。君を尊重して」
嘘つけ! 内心で呆れ返る。昨日見た三年間分の私の好みの記録と、今、目も合わせられないこの男。これで夫婦?馬鹿な~
「キスは、したことある?」
今度こそ浩二は完全に固まった。数秒間、呆然と立ち尽くしていたかと思うと、突然冷蔵庫に向かって駆け出した。
「朝食、何があったかな! 無理に思い出そうとしなくていいから、座ってて!」
その背中を見送りながら、私はこの男が嘘をついているという確信をさらに深めた。でも、どうして?
一日中、浩二を観察した。昼食の準備では、緊張のあまり料理に砂糖の代わりに塩を入れそうになるし、「夫婦」だと言い張るくせに、指先が偶然触れただけで謝ってくる始末。午後は「喫茶店の用事を済ませてくる」と言って、出かける前に念を押された。「何かあったら電話して。冷蔵庫に好きなもの、入ってるから」
好きなもの。またあの記録の詳細だ。
彼がいない間に、私はもっと手がかりがないか部屋を探した。そして見つけたのは、さらに不可解なものだった。本棚には私が読みたいと言っていた本が並び、クローゼットには私のサイズにぴったりの女性ものの服が数着。この男、いつから準備を?
夕食に、浩二は私のお気に入りのレストランから出前を取って帰ってきた。最初のデートはいつ、どこだったのかと訊いてみると、彼はしどろもどろになるばかりで、まともな答えが返ってこなかった。
本当に付き合っていたのなら、こんなことを忘れるはずがない。
午前二時。また眠れずにいた。
浩二は「患者なんだから、ちゃんと休まないと」とか言って、主寝室を私に譲り、自分はソファで我慢すると言い張った。その紳士的な振る舞いが、かえって私の疑いを増幅させる。
静かにキッチンへ水を飲みに行くと、まだ明かりがついていた。浩二がコーヒーメーカーのそばに立っている。何かに集中していて、私に気づいていない。
「まだ起きてたの?」
声をかけると、彼はびくりと肩を揺らし、ひどく驚いた拍子にコーヒーの粉をカウンター中にぶちまけてしまった。
「梨乃! どうして……」彼は慌ててそれを片付け始める。「眠れないのか? 温かいミルクでも作ろうか?」
「コーヒーの淹れ方を習いたい」私は彼の隣に歩み寄る。「ラテアートを教えて。何か思い出すきっかけになるかもしれないから」
浩二は目に見えて体をこわばらせたが、頷いて同意した。
「こうやって持つんだ」彼は私の後ろに立ち、手を取って導く。「リラックスして。手首は柔らかく」
私たちは至近距離に立っていた。彼の呼吸が感じられるほどに。私はわざと後ろに寄りかかり、背中を彼の胸に触れさせた。
浩二の呼吸が、途端に乱れたのが分かった。
「そ、そう.......そんな感じで、ゆっくり傾けて」彼の声は震えていた。「ミルクフォームの密度が、ちょうど良くないと」
コーヒーメーカーが突然ピーッと音を立てると、浩二は感電したかのように飛びのいた。
「先にやってみて! タオル取ってくるから!」
そして彼は走った。文字通り逃げ出し、私を一人そこに残して。
私は彼の真っ赤になった耳を見つめながら、胸の中で大きくなっていく、言葉にできない感情を抱いた。やれやれ.......
「私たち、本当に三年間も付き合ってたの?」私はそっと尋ねた。「どうしてそんなに私に気を遣うの? 何かを怖がっているみたい」
浩二は動きを止め、長い間黙り込んだ後で答えた。「君は怪我をしている。傷つけたくないんだ」
「でも浩二」私は一歩近づき、彼がいつも後ずさることに気づきながら言った。「本当に愛し合っているなら、どうして私の目も見られないの?」
彼はようやく振り返った。その瞳には、痛み、渇望、そして深い自責の念といった、複雑な感情が渦巻いていた。
昨日、あのノートを見つけた時と同じように、また彼の脆い一面を見てしまった。
「梨乃、いくつかのことは……」彼は何かを言おうと口を開きかけたが、ただ首を横に振っただけだった。「もう休んだ方がいい」
部屋に戻り、ベッドに横になりながらさっきの出来事を反芻する。浩二の一つ一つの表情、一つ一つの言葉が、説明のつかないほど奇妙だった。
うとうとしかけたその時、話し声で目が覚めた。
浩二がリビングで電話をしている。声を潜めていたが、夜の静寂の中ではっきりと聞こえた。
「いつまでこれを続けられるか分からない……彼女は俺をすごく信頼してくれてるのに」彼の声は苦痛に満ちていた。「彼女に見つめられるたび、自分がとんでもないクズ野郎に思える」
私は息を殺して聞き耳を立てた。
何を続けるって? 彼は何を偽っているの?
「もし彼女が真実を知ったら……いや、絶対にうちの家の事業のことは知られちゃいけない」浩二の声が重くなる。「もし彼女が思い出したら……」
私の家って? 彼の家族が私の家に何をしたっていうの?
「ただ彼女を守りたいだけなんだ。でも、こうやって嘘をつき続けるのは、気が狂いそうだ」彼はリビングを歩き回っている。「彼女はあんなに良くて、純粋で、俺に彼女を手に入れる資格なんてあるわけない」
電話の向こうの相手が何かを言うと、浩二は自嘲的な笑いを漏らした。
「お前には分からないよ。彼女は、俺たちが君たちの頃からずっと、俺の光だったんだ。真実を知らせるくらいなら、憎まれた方がましだ。俺が何者か知ったら、彼女は絶対に離れていく」
家族? 危害? 全然わからないよ、無数の疑問が頭の中を駆け巡る。
「もういい、これは俺が自分で何とかする。彼女の記憶が戻ったら、俺は消える。少なくとも、あと数日は彼女の世話ができる」
電話を切った後、リビングは静まり返った。
ドアの隙間から、浩二が壁に寄りかかって床に座り込み、両手で顔を覆って肩を震わせているのが見えた。
「梨乃、もし君が俺の正体を知ったら、俺の家族が君の家族にしたことを知ったら、それでもこんなふうに俺を信じてくれるだろうか」彼は絶望に満ちた声で、独り言を言った。
私はドアの後ろに立ち、心臓が破裂しそうなくらい激しく鼓動していた。
嘘をついていたのは、私だけじゃなかった。
浩二もまた、私たちの家族間の確執に関わる、大きな秘密を抱えていた。
私はそっとベッドに戻り、天井を見つめた。
彼は私を守りたいと言った……何から? 彼の家族は私の家族に何をしたの? どうして彼は自分に私を持つ資格がないと思っているの?
でも、何よりも衝撃的だったのは、浩二の言葉に込められた深い愛情だった。痛々しくて、絶望的で、けれど紛れもなく誠実な愛。
彼は私のことを、光だと言った……
目を閉じると、胸の中で心臓が速鐘を打っているのを感じた。
この同棲ごっこは、完全に私の予想を超えていた。もともとは記憶喪失のふりをして喫茶店を手に入れたいだけだったのに、今やもっと大きな何かに巻き込まれている。
さらに悪いことに、私は浩二の痛みを気にかけ始め、彼の秘密を知りたいと願っている。
こんなの、計画にはなかった。
まったく、なかった。
