第1章

「ご懐妊です。おめでとうございます」

検査結果の用紙が一ノ瀬紗月の手に渡った。そこには〈妊娠6週〉とある。

胸の奥から、喜びが潮のように満ちてくる。笑みがこぼれかけた、その瞬間――患者名の欄が、自分ではないことに気づいた。

しかも、見覚えのある名前。

一ノ瀬美琴。

「これ……取り違えてませんか?」

「申し訳ありません!」医師がようやく気づき、慌てて別の用紙を差し出す。「こちらが奥さまのです」

紗月が視線を落とすより早く、診察室のドアが勢いよく開いた。

「お姉ちゃん、どうしてここにいるの?」

甘ったるく、歌うみたいな声。育ちのいい娘特有の傲慢さが、言葉の端ににじむ。

「その結果、私のだよね?」

目ざとく紙を見つけると、美琴はひったくるように奪い取った。

「お姉ちゃん、私が誰の子を妊娠したか知りたい?」

誇らしげに下腹へ手を添え、見下ろすように笑う。

甘い香水が鼻を刺し、紗月は吐き気を覚えた。相手にせず、自分の結果用紙を折り畳む。

「知らない?」

美琴は顎を上げ、蔑むように紗月を頭からつま先まで舐める。

「教えてあげる。お義兄さんのよ」

「あなた、お義兄さんと結婚して3年も子どもができなかったのに。私は一回で当たっちゃった。お腹の子、絶対に九条家の跡取りだもん」

心臓を鷲掴みにされたみたいに痛み、視界が数秒、真っ暗になった。

予感はあった。けれど、耳で聞いた瞬間、受け止められるはずがなかった。

「……おめでとう」

感情を一気に押し込み、淡々と言う。

「一ノ瀬家の偽物のお嬢さまが不倫相手になって、子どもが跡取り? 恥でしかない。九条湊にとって、あなたは安っぽいだけよ」

美琴の顔が歪む。

「ふん。追い出されるのはあなたでしょ、老けた奥さん!」

「今すぐ湊に知らせてあげる! 今夜、彼が私にプロポーズするから。待ってて!」

紗月は返事をしなかった。踵を返し、そのまま出て行く。

結果用紙をバッグへ放り込み、誰にも文字を見せないまま――

〈妊娠12週〉

結婚して3年、九条湊の子を授かったことは一度もない。もともと生理は不順で、最近の吐き気も「体調のせい」くらいにしか思っていなかった。

それでも今、皮肉としか感じない。

妊娠を知るのと同時に、この子から父親が消えたことも知ったのだから。

紗月と九条湊は幼なじみだった。捨てられた隠し子として生きてきた彼が、九条グループで足場を固めるまで、ずっと隣で支えた。どれほど絆が深く、愛が骨の髄まで染みていようと――妊娠中の裏切りだけは受け入れられない。

突然、携帯が鳴った。九条湊からだ。

紗月は出ずに、ポケットへ押し戻す。風衣をきつく合わせ、病院を出ると、道路脇のゴミ箱の前で用紙を細かく破り、ひとひらずつ捨てた。

四度目の着信で、ようやく通話に出る。

「紗月、具合悪いのか?」一瞬で見抜いたような声。「会議やめて、すぐ行く」

「大丈夫。さっきは外がうるさくて、着信に気づかなかっただけ」紗月は静かに言う。

心配の色は本物だった。愛情も、長年と変わらない――ただし、彼は浮気している。

相手がよりにもよって、いつも彼女に突っかかってくる一ノ瀬家の偽物の娘。

目尻に滲んだ涙は秋風にさらわれ、声に感情は乗らない。

「会議、何時に終わる? 今夜、あなたの作る麺が食べたい」

「……」電話の向こうで、湊が珍しく言いよどむ。「今夜のパーティは重要なんだ。最近お前、吐き気が続いてたろ? だから連れていかなかったけど……」

沈黙のあと、紗月は言った。

「私も行きたかった。でも、九条湊。今は……本当に帰ってきてほしい」

こんなふうに、直球で強く頼むことはほとんどない。以前なら、彼は一秒も迷わず駆けつけたはずだ。

湊は声をさらに甘くする。

「ごめん。ほんとにごめん。終わったら最速で帰る、いい? 多分、明け方になるけど……埋め合わせする。週末は一緒にいて、バッグも買いに行こう――」

柔らかい言葉を並べても、結論は同じ。今日は忙しい。一分も割かない。

「今夜……本当にプロポーズしに行くんだね」

心が完全に死んだ。泣きながら、笑いながら、そう口にする。

「え?」風の音に掻き消され、湊は聞き取れない。「何?」

「何でもない。先に切る。ちょっと疲れた」

街路に停めた黒いマイバッハの前へ向かいながら言い、通話を切った。

「紗月、大丈夫ですか?」

運転手の佐藤は元自衛官の女性で、動きも判断も鋭い。表向きは九条湊の手配だが、実際は紗月の腹心だった。

「私、妊娠してる。一ノ瀬美琴も妊娠してる。どっちも……九条湊の子」

後部座席に沈み込むように座り、疲れきった声で言う。

「家に帰ろう」

窓の外を見る。ガラスに映るのは、息をのむほど美しい――けれど絶望で満ちた顔だった。

「……あり得ない!」

佐藤はハンドルをしっかり握り、車は揺らさないまま、口だけは止まらない。

「私はずっと、天地がひっくり返っても九条湊は浮気しないって思ってましたよ! あの人、筋金入りの一途じゃないですか! 昔、あなたが怒ったとき、雨の中で一晩中ひざまずいたし。誘拐されたときなんて、街中をひっくり返して犯人を半殺し……骨折だらけにしたんですよ!」

紗月は口元だけ、わずかに上げた。目の奥は凍りついたまま。

あの人がしてくれた「愛してる」行為は確かに多かった。けれど、それは過去だ。

「そういえば、紗月」

佐藤が真面目な顔になる。

「前に言いましたよね。九条湊と一ノ瀬美琴、何度も見たって。距離が近すぎるって。あのときあなた、『誤解だ』って言ったけど……やっぱり黒じゃないですか!」

「一ノ瀬美琴、わざと誘惑してるんですよ。あなたを不快にするために! 紗月、いっそ老爺子に言って、あのクズ男と泥棒猫――まとめて……」

紗月はずっと黙っていたが、そこで小さく笑った。

「しなくていい」

「佐藤、事故を一つ用意して」

「妊娠3か月。遅くても5か月で目立ち始める。その前に――九条湊に、私が死んだと思わせて」

決断は五分で下したはずなのに、声は揺れない。ひと息吐き、澄んだ瞳に氷が宿る。

「結婚のとき言った。私たちは絶対に離婚しない。離れるなら死別だけだって。……じゃあ、死別にしてあげる」

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