第2章
九条湊が帰宅したのは、午前3時だった。
一ノ瀬紗月はもう眠っていた。額をそっと撫でられる気配に、びくりと目を開ける。
闇の中、九条湊はスーツの上着を脇に放り、シャツのボタンを二つ外したまま、ベッドのそばに腰を下ろして彼女を見つめていた。
まっすぐな肩のライン。伸びた背筋。刃物みたいに鋭い顎――ふだんなら冷徹に決断を下す人なのに、彼女の前でだけ、柔らかい顔をする。
紗月の心臓が、どくんどくんと暴れだした。
「ごめん。驚かせたか?」
彼女のわずかな変化を察したのだろう。湊は慌ててスタンドライトを点けた。
紗月は身体を起こし、ヘッドボードにもたれる。長い髪が頬に落ち、ただでさえ小さな顔がいっそう痩せて見えた。血の気のない顔色は、疲れも滲んでいる。
紗月は黙ったまま、湊の彫りの深い顔立ちを視線でなぞる。ふいに、彼の幼い頃の顔が思い出せないことに気づいた。
「ねえ、聞きたいの」
紗月が言った。
「私、ずっと子どもができないでしょう。もし他の女があなたの子を妊娠したら……あなたは私と離婚する?」
湊が一瞬、言葉を失う。だが表情に迷いは一片もなかった。
「何を言ってる。俺が他の女を妊娠させるわけないだろ」
「もし、だよ」
紗月は引かなかった。
「そのとき、どうするの?」
「そんな『もし』はない。悪い夢でも見たのか?」
「答えが知りたいだけ」
紗月は瞬きもせずに彼を見つめた。
昔の湊は短気で、感情が顔に出る人だった。それが彼女の手ほどきで、少しずつ落ち着いた男になった――はずだった。
その落ち着きが、こんな形で。彼女に向けられる演技として。
胸の奥が詰まって苦しい。泣きたいのに、涙が出ない。
「子どもがそんなに大事か?」
湊が低く息を吐く。
「俺だって親父から九条グループを継いだわけじゃない」
湊は紗月の手を握った。妙に改まった仕草で。
「夫婦のほうが、一生そばにいられる。子どもがいるかどうかなんて関係ない。俺はお前が欲しい。それで、将来の跡継ぎが誰になるかは――」
ふっと口元をゆるめる。
「地球に何十億人もいるんだ。適任者くらい見つかるだろ?」
紗月もつられて目尻をわずかに下げた。笑っているのに、どこにも届かない笑み。
「……口が上手いね」
感心したふりで呟く。
一ノ瀬美琴を妊娠させながら、彼女とは「一生一緒に」?
それ以外にも浮気相手がいるなら、その人たちも「一緒に」なのだろうか。
悔しくてたまらない。彼の胸に飛び込んで、ぐしゃぐしゃに泣きたかった。けれど目の前の男は、もう彼じゃない。過去に戻って、あの頃の彼を抱きしめることはできない。
「全部、本心だよ」
湊が囁く。
「……もう寝ろ。俺、酒の匂いがきついから先にシャワー浴びてくる」
彼は紗月の前髪に軽くキスを落とし、布団の端を整えてから、外のバスルームへ向かった。
夜が明けても、紗月は一度も眠れなかった。
湊も、結局ベッドに戻ってこなかった。
静まり返った夜の底。ぼんやりと、彼の声が聞こえる。誰かと電話しているらしい。語尾まで甘く、優しく、長年彼女に向けてきたのと同じ調子で。
――彼の愛は、私だけのものじゃなかったんだ。
翌朝、湊は挨拶もなく出ていった。紗月は起き上がる気にもなれず、途切れ途切れに正午まで眠り、階下の物音でようやく身を起こした。
降りていくと、リビングに実母の一ノ瀬蘭がいた。
「美琴が妊娠したって、知ってるでしょう?」
蘭はソファにふんぞり返り、脚を組む。金縁のティーカップからは湯気が立っていた。
一口すすり、得意げに笑う。
「前から言ってたじゃない。九条家に嫁ぐのは美琴だけ。あんたが何だっていうの」
そんな言葉は、一ノ瀬家に『戻された』日から、ずっと浴びせられてきた。
一ノ瀬美琴は取り違えで育った子でも、幼い頃から貴族式の教育を受けていて、蘭によく似ていた。派手で、気位が高い。
一方で紗月は、泥の中に踏みつけられる側。生まれる場所を間違えた出来損ない。蘭と同じ血など流れていないと言わんばかりに、使用人部屋に押し込まれ、美琴の余り物を拾って生きてきた。
「毎日、夢見てるんでしょ」
紗月が静かに言う。
「九条湊が私を捨てて、一ノ瀬美琴を選ぶって。でも残念。あなたたちが湊を知れたのは、私がいたからだよ。じゃなきゃ一ノ瀬家なんて、九条家の靴も磨けない」
「ふざけないで!」
蘭はぱん、とカップをテーブルに置いた。
「湊は美琴を追いかけたの! 美琴こそ九条の奥さまにふさわしいって分かってるのよ! 子どもも産めない女が、何の役に立つの!」
紗月の指先が、きゅっと丸まった。
わざと刺しにきている言葉だと分かっていても、痛むものは痛む。
湊は誘惑されたのだと思いたかった。でも彼は、判断できない子どもじゃない。選んだのは彼自身だ。
以前、取引先の男が湊に言ったことがある。結婚しても外で女を囲うのは普通だ、と。
そのとき湊は笑って返した。
「残念だけど、俺の目にかなう女がいない」
その場面を紗月は見てしまって、湊に問いただした。もし「目にかなう女」がいたら、囲うの? と。
湊は大げさなほど誓って否定した。あれは社交辞令の冗談だ、と。ほどなくして、その男とも距離を置いた。
――今になって思う。もっと前から、彼は私の前で芝居をしていたのかもしれない。
紗月は佐藤が用意した葉酸を、ぬるい湯で流し込む。ボトルにはビタミンとだけ印字され、目立たない。
「一ノ瀬紗月。あんた、どうあれ私の実の娘でしょう」
黙っている紗月を見て、蘭は声の調子を落とす。だが見下す口ぶりは変わらない。
「一ノ瀬家が潰れない限り、あんたくらい養ってあげる。だから利口にしなさい。さっさと湊と離婚して、九条の奥さまの椅子にしがみつかないこと。本人も言ってるわよ、手切れ金は出すって」
紗月の眉がぴくりと動いた。
「……もう、あなたたちと『美琴を嫁に』って話をしたんだ」
「当然でしょ!」
蘭は愉快そうに笑った。
「式の日取りまで動いてる。今日来たのはね、取りに来るものがあるから」
彼女は立ち上がり、当たり前のように階段へ向かう。まるでこの屋敷の女主人が自分だと言わんばかりに。
「あなたが湊と結婚したときのドレス、どこ? ヴェラウォンのオートクチュール。手作業のダイヤが何百粒も付いてたやつ。あれ、私ずっと好きだったのよね」
振り返りもせずに続ける。
「だから今日はそれを持って帰る。美琴の体型に直して、湊との結婚式で着せるの」
紗月は淡々と返した。
「一ノ瀬美琴って、気高いお嬢さまなんでしょ。浮気相手で満足しとけばいいのに、私のお古のドレスまで欲しがるの? 物乞い?」
「一ノ瀬紗月!」
蘭が階段の手すりを叩きつける。
「そのドレスにふさわしくないのは、あんたよ!」
「ふさわしくなくても、あれは私のもの」
紗月は微笑んだまま、声だけを少し張った。
「乞食にくれてやっても、あなたには渡さない」
そして、凛と告げる。
「執事。——一ノ瀬蘭をつまみ出して」
