第29章

一ノ瀬紗月は「あ、そう」とだけ返し、それ以上は追及しなかった。ただ睫毛を伏せ、ゆっくりと水を口に運ぶ。

彼女が静かであればあるほど、九条湊の胸の内は乱れていく。

やはり――三十秒もしないうちに、あのしつこい着信音がまた鳴り出した。

今度の九条湊は、取り繕うことさえ忘れていた。顔に浮かんでいるのは、追いつめられた苛立ちと狼狽だけ。

慌ててもう一度切ろうとした、そのときだった。一ノ瀬紗月がふっと笑った。

目を上げた彼女の綺麗な瞳には、相手を思いやるような気遣いがにじんでいる。やわらかな声で言った。

「そんなに困ってるなら、大事な用なんでしょう? さっきの取引先、また何かあったの?」

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