第3章
「はっ!」
一ノ瀬蘭は腰に手を当て、階段の途中に仁王立ちした。まるで怯える気配もない。
「言っとくけど、うちの娘はもうすぐこの屋敷の女主人になるのよ! あたしに楯突いたら、あんたたち帝都で生きていけなくしてやる――きゃあっ!」
その恫喝は、そこでぶつりと途切れた。
いつの間に現れたのか、白手袋の執事が無言のまま一ノ瀬蘭の腕をつかみ、そのままひょいと持ち上げる。
そして一ノ瀬紗月が言った通り、本当に“放り出した”。
門の外へ。
「覚えてなさいよ!」
喚き声は、重たい門扉が閉まる音と一緒に、きっぱり遮断された。
一ノ瀬紗月はこみ上げる吐き気をこらえながら、コーヒーを半分だけ飲んだ。それを遅い朝食兼昼食代わりにしてから、衣装部屋へ向かう。
そして、あのウェディングドレスを取り出した。
13mのロングトレーンは衣装部屋の奥を大きく占領していた。数カ月ごとに彼女自身が手入れをしていたせいで、何年も経った今でも新品同然だ。きらきらと、痛いほどに美しい。
このドレスを身にまとった日の幸福も高揚も、まだ鮮やかに残っている。胸いっぱいに膨らんでいく喜びが、どれほど甘かったか――一ノ瀬紗月は今でも覚えていた。
けれど。
もう、あの頃とは何もかも違う。
彼女は使用人の手を借りず、重たいドレスを一人で引きずるようにして階下へ下り、そのまま裏庭へ向かった。
30分後、一ノ瀬美琴が別荘に姿を現した。
「お姉ちゃん、まだ空気読めないんだね」
一ノ瀬蘭がドレスを取り戻せなかったから、今度は一ノ瀬美琴が自ら乗り込んできたのだ。
裏庭で一ノ瀬紗月を見つけると、彼女は顎を上げて言う。
「お姉ちゃんが素直に身を引いてくれるなら、私だって情くらいは考えるよ。これから先、そこまでひどいことはしない。だって湊お義兄さんがお姉ちゃんを大事にしてきたの、私も知ってるし」
「でも、協力しないなら……結局、九条湊は私と結婚する。惨めになるのはお姉ちゃんのほうだよ」
一ノ瀬蘭とまるで同じ台詞だった。
一ノ瀬紗月にとっては、相手が母でも娘でも大差ない。
彼女は裏庭の回廊の下、クッションの利いた椅子に腰かけ、指先で純金のライターを弄んでいた。
「一ノ瀬紗月、聞いてるの!?」
半ば透かし彫りになった回廊の壁が視界を遮っていたせいで、一ノ瀬美琴は数歩前へ出て、ようやく庭の様子を目にした。
芝生の上に、彼女が喉から手が出るほど欲しがっていたウェディングドレスが、まるでゴミのように投げ出されている。
しかも、鼻をつく刺激臭まで漂っていた。
「一ノ瀬紗月、何する気!?」
悲鳴にも似た声が上がるのと同時に、一ノ瀬紗月の手の中のライターが弧を描いて飛ぶ。
落ちた火は、純白のドレスの上へ。
次の瞬間、ぼっと青い炎が走った。
あらかじめガソリンをかけてあったのだ。ほとんど一瞬で、轟々とした火の手が上がる。
「あっ……!」
一ノ瀬美琴は叫び、反射的に駆け寄ろうとした。だが熱気があまりにも強く、結局その場で立ち尽くすことしかできない。
「一ノ瀬紗月、頭おかしいんじゃないの!?」
「紗月!」
背後から、九条湊の声が飛んだ。外から戻ってきたのだ。
一ノ瀬紗月が振り向くより早く、一ノ瀬美琴が泣きつくように声を上げる。
「湊――お義兄さん!」
危うく呼び方を間違えかけた。
「お義兄さん、お姉ちゃん、急にどうかしちゃって……ウェディングドレスに火をつけたの……」
「紗月、どうした?」
九条湊は消火を急がなかった。燃え盛るドレスをちらりと一瞥しただけで、まるで紙屑でも見るようにどうでもよさそうに視線を外す。
それから一ノ瀬紗月の前にしゃがみ込み、そっと彼女の手を取った。
「最近ずっと体調が悪かっただろ。だから気分も沈んでるのか? 燃やしたいなら燃やしていい。そんなもの、どうでもいいから」
その後ろで、一ノ瀬美琴が口を半開きにしたまま固まっていた。
あまりのあからさまな差に、目の奥の嫉妬は濃く、どろどろと煮え立っている。まるでドレスと一緒に自分まで燃え上がりそうなほどに。
一ノ瀬紗月はようやく炎から視線を外し、九条湊を見た。
火の明かりが目に刺さり、何度も瞬きをして、ようやく涙を押しとどめる。
「九条湊。もし私が浮気したら、あなたはどうするの?」
「紗月?」
九条湊は一瞬だけ目を見開き、それからふっと笑った。
「君が浮気なんて、するわけないだろ」
「もしもの話」
「そんなもしもは――」
「答えが聞きたいの」
昨夜と同じだった。妙に頑なで、譲らない。
九条湊は仕方なく、答える。
その優しさの底に、ぞっとするような凶暴さを滲ませながら。
「君が浮気したら、その男を殺す」
低く、静かに。
「それから君を俺のところに閉じ込める。二度と離れられないように」
一ノ瀬紗月は笑った。
長く、長く。
涙がこぼれるほど笑って、腰を折るほど笑って、片手でそっと下腹をかばいながら――胸の底だけは、凍えるほど冷え切っていた。
「紗月」
九条湊はその様子にさすがに不安になったのか、彼女の前に片膝をつく。
「いったいどうしたんだ? 本当のことを俺に話してくれないか?」
「私が浮気したら、相手を殺すんだ」
笑いを止めた一ノ瀬紗月は、九条湊の肩越しに、その後ろの一ノ瀬美琴を見た。
すっと、目の温度が消える。
「じゃあ、あなたが浮気したら――私もその相手を殺していいの?」
一ノ瀬美琴の肩がびくりと震えた。
九条湊の胸の奥も、わずかに強張る。だが表情には欠片も出さない。
浮かべるのは、困ったような苦笑だけ。
「ここ数日、ほんとに様子がおかしいな。そうだ、しばらく旅行でも行こうか。気分転換しよう。どこへ行きたい?」
「お義兄さん……」
一ノ瀬美琴がたまらず口を挟む。
「お姉ちゃんを連れて行くの? 来週、私の誕生日を一緒に祝うって話してたのに……」
「子どもじゃないんだから」
九条湊はたちまち眉をひそめ、声に苛立ちを滲ませた。
「誕生日なら親に祝ってもらえ。俺と紗月には俺たちの都合がある」
一ノ瀬紗月は、目の前で繰り広げられる芝居を静かに眺めていた。
真実を知らなければ、この二人がとっくに深い仲になっているなんて、きっと見抜けなかっただろう。
「私……」
一ノ瀬美琴は唇を噛み、悔しそうに俯く。
「でも……」
「あなた、お義兄さんのことずいぶん好きみたいね」
一ノ瀬紗月がふいに、面白がるような口調で言った。
「いっそ、お義兄さんに愛人として囲ってもらえば?」
「紗月!」
怒ったのは一ノ瀬美琴ではなかった。
先に顔色を変えたのは九条湊だ。
「そんな冗談はやめろ」
その目は澄みきっていて、声音には一点の迷いもない。
「俺が愛するのは、この先も一生、君だけだ。忘れるな」
そう言って彼はポケットから小さなベルベットの箱を取り出し、宝物でも差し出すみたいに一ノ瀬紗月の前へ掲げた。
ためらいなく、蓋を開く。
中には、ダイヤの指輪がひとつ。
淡いブルーを湛えた、澄みきった大粒の石。指の節ほどもある大きさだった。
「本当は結婚3周年に贈るつもりだった。ちょうど来月だしな」
九条湊は幸せそうに微笑む。
「でも、先につけてみないか?」
「あなた――」
その背後で、一ノ瀬美琴が今にも飛び上がりそうな顔をした。
それは彼女の指輪だ。九条湊が自分に贈るはずだった、プロポーズの指輪。
「いいよ」
一ノ瀬紗月は気のない調子で右手を差し出し、もともと薬指にはまっていた結婚指輪をするりと外した。
「私のサイズになってるの?」
彼女の指は細く、長い。
一方で、一ノ瀬美琴の指は短く丸い。
同じ指輪がぴたりと合うはずなどない。
――なのに。
九条湊は驚くほど慎重な手つきで指輪を滑らせ、そのまま一ノ瀬紗月の薬指にぴたりとはめた。
きつくもなく、緩くもない。
まるで最初から彼女のためだけに作られたように、寸分違わず収まっていた。
降りそそぐ陽光のなか、その光景はまるで新たな求婚の場面のように美しい。
一ノ瀬美琴は悔しさで涙ぐみ、ついに腹を括ったのか、関係を暴くつもりで口を開く。
「一ノ瀬紗月、はっきり言うね! 私と九条湊はとっくに――」
