第4章
「――誕生日のプレゼント、もう用意してあるんだろ?」
九条湊が一ノ瀬美琴の言葉を遮って引き取った。声の調子は平坦なのに、有無を言わせない圧が滲む。
彼は顔だけ横に向け、冷えきった視線で一ノ瀬美琴を斬りつけた。警告の色が濃すぎて、氷で鍛えた刃みたいに、彼女の続きの言葉を喉元でぶつりと断ち切る。
一ノ瀬美琴はその眼差しにびくりと震え、口まで出かけた真実を無理やり飲み込んだ。頬がかっと赤くなる。
九条湊が一ノ瀬紗月へ視線を戻した瞬間、眼底の荒い気配は跡形もなく消え、残ったのは甘いほどの優しさだけだった。
「紗月。気分が晴れないなら、来週、晩餐会を開こう。ちょうどいい。あの指輪を正式にお前に贈る。皆にも知らせたいんだ――お前が、永遠に俺の唯一の妻だって」
一ノ瀬紗月は黙って彼を見つめ返した。
情人を平然と脅し、その舌のまま妻を愛おしげに宥める。嘘の縁を綱渡りしているくせに、息も乱さない。その落ち着きが、逆にぞっとする。
「ええ、いいわ」
一ノ瀬紗月は睫毛を伏せ、瞳の奥に浮かびかけた自嘲を隠した。
「九条社長がやると言うなら、派手にやりましょう」
承諾を得た九条湊の肩の力が、ほんの少し抜ける。彼は身を屈め、彼女の頭頂にそっと口づけた。
「いい子だ。全部、お前の好きにしろ」
その後、九条湊は仕事で席を外した。
一ノ瀬紗月はがらんとしたリビングに座り、指先の大粒のダイヤの指輪を見つめる。重い。まるで枷だ。
背後に、気配もなく佐藤が現れた。声を落として言う。
「紗月、手配は済みました」
一ノ瀬紗月は我に返り、冷えた目で促す。
「話して」
「“向こう”に繋ぎました。身分の抹消と事故の偽装を専門にする組織です。相当手慣れてる。調べたところ、こちらがきちんと協力すれば、痕跡は完全に消せる。九条社長の力でも一滴の情報すら掬えない、と」佐藤は一拍置き、顔を引き締めた。「ただし条件が一つ。このレベルの依頼は、本人と対面で細部を詰める必要があるそうです。“死に方”を確定させるために」
一ノ瀬紗月は爪先をゆっくりとなぞった。指先が氷みたいに冷たい。
「数日内に、会う機会を作る」
……
土曜の夜。九条家本邸は光に溢れ、帝都の名士と権勢がこぞって集った。
一ノ瀬紗月は、極限まで装飾を削った黒のサテンのドレスを纏っていた。肌の白さが、冷たい玉のように際立つ。
九条湊は衆目の前で、彼女の首に「永遠の涙」と名づけられた世界限定のネックレスを掛けた。
中央の主石は大きすぎるほどで、灯りを受けてぎらりと刺すように光る。
「紗月……綺麗だ」
九条湊が耳元で囁く。周囲の目には、二人は相変わらず羨望を集める理想の夫婦に見えただろう。
そのとき、場に似つかわしくない声が割り込んだ。
「お姉さま、今日はひときわ輝いてますね」
招かれざる客――一ノ瀬美琴だった。炎みたいに赤いドレスを着て、派手に、傲慢に、存在を誇示する。
彼女はわざと手を上げ、耳元の髪を払った。
一ノ瀬紗月の視線が、すっと細くなる。
一ノ瀬美琴の中指には、紗月の薬指のものとまったく同じ、淡い青のダイヤの指輪が嵌っていた。
同シリーズの対、あるいは――九条湊が情人を宥めるために作らせた、複製品。
名媛たちがひそひそと囁き合い、二人の指先を行き来する視線が妙に生々しい。
一ノ瀬美琴は得意げに顎を上げ、紗月の耳にだけ届く声量で挑発する。
「お姉さま。指輪は同じでも、湊はね――私が着けたほうが似合うって言ったの。新しいほうが、古いものよりいいでしょ?」
一ノ瀬紗月は答えない。ただ静かに彼女を見た。その眼は、死体を見るみたいに凪いでいる。
「何も言えないの? 石の照りに目がくらんだ?」
美琴の態度はますます増長する。
一ノ瀬紗月は、ふっと笑った。通り過ぎる給仕のトレイから赤ワインを一杯取る。
「ええ、眩しいわ」
言い終えるより早く、手首がほんのわずかに揺れた――ただそれだけ。
とろりと濃い赤ワインが、一ノ瀬美琴の真紅のドレスの胸元からどっと流れ落ちる。高価な布は一瞬で汚れ、無残な染みを広げた。
「きゃあっ!」
一ノ瀬美琴が甲高く叫ぶ。
「一ノ瀬紗月! あんた、頭おかしいの!?」
「ごめんなさい、手が滑ったの」
一ノ瀬紗月は優雅にグラスを戻し、ハンカチで指先を拭う。そこに汚れなどないのに、丁寧に。声は淡々と冷たい。
「でも大丈夫。服は汚れても洗えば着られるもの。けれど、生まれつき汚れているものもあるわ。盗んだものとかね。ダイヤを嵌めたって、安っぽい腐った匂いまでは隠せない」
「……っ!」
一ノ瀬美琴は怒りで震え、反射的に少し離れた九条湊を見る。
九条湊は財界の大物数人と話していた。騒ぎに目を向け、眉をほんの少し寄せただけで、また視線を戻す。美琴を庇う気など、欠片もない。
一ノ瀬美琴は奥歯をぎりっと噛みしめ、スカートを掴んで九条湊のもとへ駆け寄った。泣き声混じりに怒鳴る。
「九条湊! 見てよ! あいつ、絶対わざと――それに、私のお腹の子が、もし何かあったら……!」
最後の言葉はぐっと低く落とされたが、それでも十分だった。九条湊の顔色が変わる。
冷淡だった眼が、たちまち深く、複雑な闇を孕む。彼は一ノ瀬紗月のほうを一度だけ見た。紗月は俯き、誰かと談笑しているように見える。
次の瞬間、九条湊は一ノ瀬美琴の手首を強く掴み、乱暴に引き寄せた。そのまま宴会場の奥、露台へ続く人目の少ない暗がりへ連れていく。
一ノ瀬紗月はその場に立ち尽くし、闇に飲まれていく二人の背を見送った。
胸の奥に残っていた最後の温度が、そこで完全に消えた。
彼女は踵を返し、脇の扉を押して、人気のない庭へ出る。夜の冷たい風が酒気を散らし、頭の中だけが冴えていった。
「一ノ瀬さん。見物は終わりだ。そろそろ本題に入ろう」
陰影の奥から、低く艶のある男の声。
一ノ瀬紗月は即座に振り返る。ベンチに男が座っていた。濃いグレーのスーツ。闇に半身を溶かし、長い指先には火のついていない煙草が挟まれている。晩餐会の華やぎとは相容れない、殺気と距離感。
男は立ち上がり、ゆっくりと街灯の下へ出た。
「……あなた、誰?」
