第5章
男は何も言わず、ただ懐から一枚の真っ黒な名刺を取り出すと、二本の指で挟んだまま彼女の前へ差し出した。
肩書はない。金の箔押しによる奇妙な紋章と、私用の番号がひとつだけ。
「君を“解放”する人間だ」
神谷蓮はわずかに唇の端を上げた。笑っているのに、目はまるで笑っていない。
「神谷蓮――そう呼んでくれればいい」
一ノ瀬紗月は名刺を受け取った。ひやりと冷たい縁が指先に触れた瞬間、なぜか心臓がひとつ脈を外す。
この男こそ、九条湊の世界から自分を完全に“死なせて”くれる人間なのだ。
神谷蓮の声は低く、夜の底に沈めたチェロのように響いた。ひと言ひと言に、揺るがぬ冷静さと妙な説得力がある。
「九条家は帝都に深く根を張っている。九条湊の目の届く範囲で、綻びひとつない事故を仕立てるには時間が要る」
さっきの煙草をポケットへ戻す。まるで最初から小道具でしかなかったみたいに。
「あなたと、あなたの周囲にいる人間すべての行動パターン、交友関係、それから九条湊側の警備体制まで洗う。そのあいだ、あなたは今まで通りに振る舞ってください。少しでも不自然なところを見せてはいけない」
あまりに実務的な口調に、ぴんと張り詰めていた一ノ瀬紗月の心はわずかに緩んだ。
欲しいのは同情ではない。必要なのは、絶対に失敗しない結果だけ。
「どれくらいかかるの?」
「早ければ1か月、遅くても3か月」
神谷蓮の視線が、彼女のまだ平らな下腹に落ちる。ほんの一瞬。なのに、すべてを見透かされた気がした。
「お腹が目立つ前には間に合います」
この人は、彼女が妊娠していることを知っている。
一ノ瀬紗月は驚きもしなかった。ただその冷たい名刺をハンドバッグへしまい、静かに頷く。
「連絡、待ってるわ」
話が終わると、神谷蓮は一秒たりとも余計に留まらなかった。くるりと背を向け、そのまま濃い夜の中へ溶けていく。気配すら残さず、最初からそこにいなかったみたいに。
一ノ瀬紗月がその場にしばらく立っていると、佐藤が迎えに来た。
「紗月さん、九条社長があちこち探しておられます」
「わかったわ」
そう返し、裾を軽く整えると、彼女は再びあの虚飾に満ちた華やぎの中へ戻っていった。
宴会場に姿を現したときには、もう顔に非の打ちどころのない微笑みが乗っていた。ついさっき庭で誰かと生死の相談をしていた女など、最初から存在しなかったかのように。
その視界に、真っ先に入ったのは一ノ瀬美琴だった。
一ノ瀬美琴もシャンパンゴールドのドレスに着替えていて、一ノ瀬蘭に寄り添っている。顔いっぱいに浮かぶ得意げな甘えと上機嫌。さっき赤ワインを浴びせられて狼狽えていた面影など、もう欠片もない。
一ノ瀬紗月に気づいても、逃げるどころか、むしろ誇らしげな挑発の眼差しを寄越してきた。
さっきテラスで九条湊に慰めてもらったのが、よほど嬉しかったのだろう。
一ノ瀬紗月は視線を外した。もう一目だって見る気はない。
パーティーが最高潮に達したのは、九条湊が一ノ瀬紗月の手を引いてメインステージへ上がったときだった。
スポットライトの下、彼はマイクを手に取る。柔らかく、深く、どんな女でも酔わせてしまいそうな声で告げた。
「本日はお越しいただき、ありがとうございます。ですが今夜は、皆さまにもうひとつ、大切なお知らせがあります」
そう言って一ノ瀬紗月の手を取り、彼はひたと彼女を見つめた。まるで、この世に彼女しかいないとでもいうように。
「九条ホールディングスの株式15%を、私の妻、一ノ瀬紗月へ譲渡します」
言葉が落ちた瞬間、会場がどよめいた。
九条グループ15%の株式。それは計り知れない財産であると同時に、揺るぎない地位を与えるものでもある。どれほど望んでも、手にできる者などほとんどいない。
「まあ、九条社長ったら、奥さまをどれだけ愛していらっしゃるの」
「溺愛どころじゃないわよ。命まで預ける勢いじゃない」
羨望とざわめきが波のように押し寄せる。
一ノ瀬紗月は彼の隣に立ち、完璧な笑みを浮かべたまま、夫に深く愛される幸福な妻という役を演じ続けた。
けれど胸の内にあったのは、ただひたすら滑稽だという思いだけ。
これは埋め合わせなのか。一ノ瀬美琴が自分と同じ指輪をつけていた件を黙らせるための口止め料か。それとも、自分はこれで安心するだろうとでも思っているのか。
祝福の声に包まれ、夜会は幕を閉じた。
帰りの車中、九条湊は彼女の手を握り、申し訳なさそうに囁く。
「紗月、今夜は帰れそうにない。会社のほうで海外とのビデオ会議があってね。大事な案件だから、徹夜になるかもしれない」
一ノ瀬紗月は心の中で冷たく笑った。
言い訳まで、いつも同じ。少しも新しくない。
彼女は窓にもたれ、流れていくネオンを眺めながら、何の波も立たない声で答える。
「そう。お仕事、頑張って。気をつけて行ってらっしゃい」
その素直さが、九条湊にはひどく心地よかったらしい。
家に着くと、彼は彼女の額に軽く口づけを落とし、また慌ただしく車に乗って去っていった。
広い邸宅に、しんとした静寂が戻る。
一ノ瀬紗月は化粧を落とし、湯を浴び、ひとりで広すぎるベッドに身を横たえた。
眠気はまるでない。ただ目を開けたまま、天井に吊られた装飾過多のクリスタルシャンデリアを見つめ続ける。
深夜になって、不意にスマホの画面がぱっと光った。見知らぬ番号からのメッセージ。画像付きだった。
開く。
背景は高級ホテルのスイートルームらしい。バスローブ姿の九条湊が、同じくバスローブ姿の一ノ瀬美琴を後ろから抱きしめている。顎は彼女の首筋に預けられ、距離は異様なほど近い。目元に滲んでいたのは、一ノ瀬紗月がこれまで一度も向けられたことのない、甘い執着と露骨な寵愛だった。
そして一ノ瀬美琴は、カメラに向かって悪びれもなく、きらきらと残酷に笑っている。
すぐに、もう一通。
【お姉さま、湊があなたに贈った『永遠の涙』、私も一緒に選んであげたの。あのメインダイヤの輝き、初めて私を見たときの私の目にそっくりだって、湊が】
目に痛いほど親密な写真と、見せつけるためだけの文面。
それを見ても、一ノ瀬紗月の胸には、思っていたような痛みも怒りもやってこなかった。
心は、驚くほど静かだった。泥すら立たない死水のように。
あのネックレスは、そういう由来だったのか。
九条湊は自分への愛を他の女に分け与えただけではない。その愛の証であるはずの贈り物にまで、別の女の影を染み込ませていた。
彼女は短く返信した。
【趣味が悪いわ】
それだけして、スマホを放り出し、目を閉じる。
夜は長い。
それでも、夜明けは必ず来る。
パーティーの翌朝は、晴れていた。
一ノ瀬紗月が神谷蓮との通話を終えたばかりのところへ、佐藤が書類を持ってくる。
九条湊名義の私設法律事務所から届いた至急便だった。
中身は、株式譲渡契約書。
