第50章

彼は身をかがめ、彼女の額に抑えた口づけをひとつ落とすと、そそくさと車を走らせて去っていった。その背には、どこか待ちきれないような焦りがにじんでいる。

その車が視界の先から完全に消えるのを見届けた瞬間、一ノ瀬紗月の顔から従順な色がすっと剥がれ落ちた。

彼女は踵を返し、道端でタクシーを拾うと、気配を殺したまま後を追った。

九条湊の車は会社へは向かわなかった。

路肩に停めるや否や、彼はすぐに一ノ瀬美琴へ電話をかける。

「今、どこだ?」

声には、隠しきれない苛立ちが混じっていた。

『湊、あなたの会社の下にあるカフェで待ってるの』

受話器の向こうから、一ノ瀬美琴の甘ったるい声が流れてくる...

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